いて行くのです」とせき込んだ口調で言うのである。「それはたいへんだが、……それならとにかく向こうの濠端《ほりばた》を右へまっすぐに神田橋《かんだばし》まで行って、そのへんでまたもう一ぺんよく聞いたほうがいいでしょう」と言って別れた。
 かなり夜風が寒い晩だのに、男は羽織も着ず帽もなしで、いかにも身すぼらしいふうをしていた。三十格好と思われる病身そうな青白い顔に、あごひげをまばらにはやしているのが夜目にもわかった。そうしてその熱病患者に特有なような目つきが何かしら押え難い心の興奮を物語っているように見えた。男の背中には五六歳ぐらいの男の子が、さもくたびれ果てたような格好でぐったりとして眠っていた。雨も降らぬのに足駄《あしだ》をはいている、その足音が人通りのまれな舗道に高く寒そうに響いて行くのであった。
 しばらく行き過ぎてから、あれは電車切符をやればよかったと気がついた。引っ返して追い駆けてやったら、とは思いながら自分の両足はやはり惰性的に歩行を続けて行った。
 女房にでも逃げられた不幸な肺病患者を想像してみた。それが人づてに、その不貞の妻が玉《たま》の井《い》へんにいると聞いて、今それ
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