蒸発皿
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)晩餐《ばんさん》をとりながら

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)消極的|退嬰的《たいえいてき》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](昭和八年六月、中央公論)
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     一 亀井戸まで

 久しぶりで上京した友人と東京会館で晩餐《ばんさん》をとりながら愉快な一夕を過ごした。向こうの食卓には、どうやら見合いらしい老若男女の一団がいた。きょうは日がよいと見える。近ごろの見合いでは、たいてい婿殿のほうがかえって少しきまりが悪そうで、嫁様のほうが堂々としている。卓上の花瓶《かびん》に生けた紫色のスウィートピーが美しく見えた。
 会館前で友人と別れて、人通りの少ない仲通りを歩いていると、向こうから子供をおぶった男が来かかって、「ちょっと伺いますが亀井戸《かめいど》へはどう行ったらいいでしょう。……玉《たま》の井《い》という所へ行くのですが」と言う。「それなら、あしこから電車に乗って車掌によく教えてもらったほうがいいでしょう、」というと「いや、歩いて行くのです」とせき込んだ口調で言うのである。「それはたいへんだが、……それならとにかく向こうの濠端《ほりばた》を右へまっすぐに神田橋《かんだばし》まで行って、そのへんでまたもう一ぺんよく聞いたほうがいいでしょう」と言って別れた。
 かなり夜風が寒い晩だのに、男は羽織も着ず帽もなしで、いかにも身すぼらしいふうをしていた。三十格好と思われる病身そうな青白い顔に、あごひげをまばらにはやしているのが夜目にもわかった。そうしてその熱病患者に特有なような目つきが何かしら押え難い心の興奮を物語っているように見えた。男の背中には五六歳ぐらいの男の子が、さもくたびれ果てたような格好でぐったりとして眠っていた。雨も降らぬのに足駄《あしだ》をはいている、その足音が人通りのまれな舗道に高く寒そうに響いて行くのであった。
 しばらく行き過ぎてから、あれは電車切符をやればよかったと気がついた。引っ返して追い駆けてやったら、とは思いながら自分の両足はやはり惰性的に歩行を続けて行った。
 女房にでも逃げられた不幸な肺病患者を想像してみた。それが人づてに、その不貞の妻が玉《たま》の井《い》へんにいると聞いて、今それ
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