する事ができなかった。
 もう一つの場合は、人から何か自分に不利益な誤解を受けて、それに対する弁明をしなければならない時に、その弁明が無効である事がだんだんにわかって来るとする、そういう困難な場合に不意に例の笑いが呼び出される。これは最もぐあいの悪い場合であるが、それを意志の力で食い止める事は、とても他人に想像されまいと思われるほど私には困難である。
 この種の不合理な笑いはすべて自分だけに特有な病的の精神現象ではないかと思っていたが、その後だんだんに気をつけて見ると、必ずしも自分だけには限らない事がわかって来た。子供の時分に不幸見舞いに行って笑い出した事や、本膳《ほんぜん》をふるまわれて食っている間にふき出したような話をする人も二人や三人はあった。
 ある時、火事で焼け出されて、神社の森の中に持ち出した家財を番している中年の婦人が、見舞いの人々と話しながら、腹の底からさもおかしそうに笑いこけているのを、相手のほうでは驚き怪しむような表情をして見つめているのを見かけた事もある。
 戦争の惨劇が頂点に達した時に突然笑いに襲われるという異常な現象もどこかで読んだ。
 これらはむしろ狂に近い
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