小浅間
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)峰《みね》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)夜|琉球人《りゅうきゅうじん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](昭和十年九月、東京朝日新聞)
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 峰《みね》の茶屋《ちゃや》から第一の鳥居をくぐってしばらくこんもりした落葉樹林のトンネルを登って行くと、やがて急に樹木がなくなって、天地が明るくなる。そうして右をふり仰ぐと突兀《とっこつ》たる小浅間《こあさま》の熔岩塊《ようがんかい》が今にも頭上にくずれ落ちそうな絶壁をなしてそびえ立っている。その岩塊の頭を包むヴェールのように灰砂の斜面がなめらかにすそを引いてその上に細かく刺繍《ししゅう》をおいたように、オンタデや虎杖《いたどり》やみね柳やいろいろの矮草《わいそう》が散点している。
 一合目の鳥居の近くに一等水準点がある。深さ一メートルの四角なコンクリートの柱の頂上のまん中に径一寸ぐらいの金属の鋲《びょう》を埋め込んで、そのだいじな頭が摩滅したりつぶれたりしないように保護するために金属の円筒でその周囲を囲んである。その中に雨水がたまっていた。自分はその水中に右の人差し指を浸してちょっとその鋲の頭にさわってみた。
 この火山の機巧の秘密を探ろうと努力している多くの熱心な元気な若い学者たちにきわめて貴重なデータを供給するために、陸地測量部の人たちが頻繁《ひんぱん》な爆発の危険に身命をさらしながら爆発の合い間をねらっては水準測量をしている。その並み並みならぬ労苦は世人の夢にも知らない別世界のものである。そんなことを無意識に考えたためでもあろうか、この水準点ベンチマークの鋲の丸いあたまに不思議な愛着のようなものを感じてちょっとさわってみないではいられなかったのである。
 水準点のすぐそばに木の角柱が一本立っている。もうだいぶ長く雨風にさらされて白くされ古びとげとげしく木理《もくめ》を現わしているのであるが、その柱の一面に年月日と名字とが刻してある。これは数年前京都大学の地球物理学者たちがここにエアトヴァスの重力偏差計をすえ付けて観測した地点を示す標柱だそうである。年々に何百人という登山者のうちで、こんな柱の立っているのに気のつく人はいくらもないかもしれない。まして、その柱の意
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