しながぐも》がある。意外な人間の訪客に驚いているであろう。おそらく経験のない蝋《ろう》のなめらかな表面には八本の足でも行き悩んでいるようであった。
 こんな所でも蠅《はえ》が多い。峰《みね》の茶屋《ちゃや》で生まれたのが人間に付いて登って来たものであろうか。焦げ灰色をした蝶《ちょう》が飛んでいる。砂の上をはっている甲虫で頭が黒くて羽の煉瓦色《れんがいろ》をしているのも二三匹見かけた。コメススキや白山女郎花《はくさんおみなえし》の花咲く砂原の上に大きな豌豆《えんどう》ぐらいの粒が十ぐらいずつかたまってころがっている。蕈《きのこ》の類かと思って二つに割ってみたら何か草食獣の糞《ふん》らしく中はほとんど植物の繊維ばかりでつまっている。同じようなのでまた直径が一倍半くらい大きいのがそろって集団をなしている。
 この二種の糞を拾って行って老測夫に鑑定してもらったらどちらもうさぎの糞で、小さいのは子うさぎ、大きいのは親うさぎのだという。さすがに父だか母だかは糞ではわからないらしい。このうさぎを捕獲すればテント内の晩餐《ばんさん》をにぎわすことができるがなかなか容易には捕れないそうである。出歩く道がわかればわなを掛けるといいそうであるがその道がなかなかわからないと言う。それはとにかく、こんなはげ山の頂にうさぎが何を求めて歩いているのか、また蜘蛛《くも》や甲虫や蝶などといかなる「社会」を作っているのか愚かな人間には想像がつかないのである。
 帰りにはT君がふもとまで送って来てくれた。途中で拾った小さな火山弾の標本をおみやげにもらった。T君の住まいは玄関から座敷まで百何十メートル登らなければならないのである。観測の成効を祈りつつ別れをつげた。
 往路に若い男女の二人連れが自分たちの一行を追い越して浅間《あさま》のほうへ登って行った。「あれは大丈夫だろうか」という疑問がわれわれ一行の間に持ち出された。しかし、男のほうはもちろん女のほうもすっかり板についた登山服姿であり、靴《くつ》などもかなり時代のついた玄人《くろうと》のそれであり、またそれを踏みしめ踏みしめ登って行く足取りもことごとく本格的らしいので、あれは大丈夫だろうということになったのであった。われわれが小浅間《こあさま》の頂上に達したころはこの二人はもうかなり小さく見えていた。われわれのおりたころにはたぶん頂上近くまで登っていた
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