なかった。
 ある夕方一同が涼み台と縁側に集まっていろんな話をしている間に、去年みんなである夜銀座へ行ってアイスクリームを食った時の話が出た。それを聞くと八重子と冬子が今年も銀座へ連れて行ってくれと云い出した。実際昨年行ったきりでその後一度も行かなかったのである。
 翌日の夕方は空もよくはれ夕立のおそれも無さそうであるし、風も涼しくて漫歩には適当であったから、妻に五人の子供を連れさして銀座へ遊びにやった。末の二人はどんな好いところへ行くかと思われるように喜んで、そして自分等の好みで学校通いの洋服を着せてもらって、一時間も前から靴をはいて勇んで飛び廻っていた。私はこの二人のむしろ見すぼらしい形ばかりの洋服を見比べているうちに一種の佗しさを感じた。その佗しさはおそらく吾々階級の父親がこのような場合に感ずべき共通のものだろう。
 子供等が出て行った後で私は涼み台で母とただ二人で話していた。座敷の電気もおおかた消してしまったので庭は暗かった。家中が珍しくしんとして表庭の方で虫の音が高く聞えていた。
 十時頃に床へはいって本を読んでいると門の戸が開いて皆がどやどや帰って来た。どうしたのか冬子が泣
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