まれて、しばらくは何事も思わなかった。
 涼しい風が、食事をして汗ばんだ顔を撫《な》でて行くと同時に楽譜の頁を吹き乱した。そして頭の中のあらゆる濁ったものを吹き払うような気がした。
 手頃な短い曲をいくつか弾いてから、いつもよくやるペルゴレシの Quando corpus morietur というのをやり始めた。これは Stabat mater の一節だというから、いずれ十字架の下に立った聖母の悲痛を現わしたものであろう。私はこれをひいていると、歌の文句は何も知らないのにかかわらず、いつも名状の出来ないような敬虔と哀愁の心持が胸に充ちるのを覚える。
 この曲の終りに近づいた頃に、誰か裏木戸の方からはいって来て縁側に近よる気はいがした。振り向いてみると花壇の前の日向《ひなた》に妙な男が突っ立っていた。
 三十前後かと思われる背の低い男である。汚れた小倉《こくら》の霜降《しもふ》りの洋服を着て、脚にも泥だらけのゲートルをまき、草鞋《わらじ》を履《は》いている。頭髪は長くはないが踏み荒らされた草原のように乱れよごれ、顎《あご》には虎髯《とらひげ》がもじゃもじゃ生えている。しかし顔にはむしろ柔和な、人の好さそうな表情があった。ただ額の真中に斜めに深く切り込んだような大きな創痕《きずあと》が、見るも恐ろしく気味悪く引き釣っていた。よく見ると右の腕はつけ元からなくて洋服の袖は空《むな》しくだらりと下がっている。一足二足進み寄るのを見ると足も片方不随であるらしい。
 彼は私の顔を見て何遍となく頭を下げた。そしてしゃ嗄《が》れた、胸につまったような声で、何事かしきりに云っているのであった。顔いっぱいに暑い日が当って汚れた額の創のまわりには玉のような汗が湧いていた。
 よく聞いてみるとある会社の職工であったが機械に喰い込まれて怪我をしたというのである。そして多くの物貰いに共通なように、国へ帰るには旅費がないというような事も訴えていた。
 幾度となくおじぎをしては私を見上げる彼の悲しげな眼を見ていた私は、立って居室の用箪笥《ようだんす》から小紙幣を一枚出して来て下女に渡した。下女は台所の方に呼んでそれをやった。
 私が再びオルガンの前に腰を掛けると彼はまた縁側へ廻って来て幾度となく礼を云った。そして「旦那様、どうぞ、御からだを御大事に」と云った。さらに老人や子供等にも一人一人|丁寧《ていねい》に礼を云ってから、とぼとぼと片足を引きずりながら出て行くのであった。
「どうぞ、御からだを御大事に」と云ったこの男の一言が、不思議に私の心に強く滲み透るような気がした。これほど平凡な、あまりに常套であるがためにほとんど無意味になったような言葉が、どうしてこの時に限って自分の胸に喰い入ったのであろうか。乞食《こじき》の眼や声はかなり哀れっぽいものであったが、ただそれだけでこのような不思議な印象を与えたのだろうか。
 嗄《しゃが》れた声に力を入れて、絞り出すように云った「どうぞ」という言葉が、彼の胸から直ちに自分の胸へ伝わるような気がすると同時に、私の心の片隅のどこかが急に柔らかくなるような気がした。そしてもう一度彼を呼び返して、何かもう少しくれてやりたいような気さえした。
 黙って乞食の挙動を見ていた子供等は、彼が帰ってしまうと、額のきずや、片手のない事などを小声でひそひそと話し合っていたが、間もなく、それぞれの仕事や遊びに気を奪われてしまったようである。子供等の受けた印象は知る事は出来ない。
 乞食は私の病気の事などはもとより知っているはずはなかった。おそらく彼は誰の前にも繰返すお定まりの言詞を繰返したに過ぎないだろう。ただそれがQの冷罵《れいば》とペルゴレシの音楽とのすぐ後に出くわしたばかりに、偶然自分の子供らしいイーゴチズムに迎合したのかもしれない。
 しかし私が彼の帰って行く後姿を見た時に突然|閃《ひらめ》いた感傷的な心持の中には、後から考えるとかなり色々なものが含まれていたようである。例えば自分があの乞食であって門から門へと貰って歩くとする。どこの玄関や勝手口でも疑いと軽侮の眼で睨《にら》まれ追われる。その屈辱の苦味をかみしめて歩いているうちに偶然ある家へはいると、そこは冷やかな玄関でも台所でもなくそこに思いがけない平和な家庭の団欒《だんらん》があって、そして誰かがオルガンをひいていたとする。その瞬間に乞食としての自分の情緒がいくらかの変化を受けはしないだろうか。少なくともこの時のこの男はそんな心持がしたのではないかという気がする。彼の顔の表情には私がこれまで見たあらゆる乞食に見られない柔らかく温かいある物があった。
 彼はそれきり来ない。もう一度来ないかしらとも思うが、やはりもう来てくれない方がいい。

      三 簑虫

 八月のある日、空は
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