鼠色に曇って雨気を帯びた風の涼しい昼過ぎであった。私は二階の机に凭《もた》れてK君に端書《はがき》を書いていた。端書の面の五分の四くらいまで書くと、もう何も書く事がなくなったので、万年筆を握ったまま、しばらくぼんやり、縁側の手欄《てすり》越しに庭の楓樹《かえで》の梢を眺めていた。すると私のすぐ眼の前に突き出ている小枝に簑虫《みのむし》のぶら下がっているのが眼に付いた。それはこの虫としてはかなり大きいものであった。よく見ると簑は主に紅葉《もみじ》の葉の切れはしや葉柄《ようへい》を綴《つづ》り集めたものらしかったが、その中に一本図抜けて長い小枝が交じっていて、その先の方は簑の尾の尖端から下へ一|寸《すん》ほども突き出て不恰好に反りかえっていた。それがこの奇妙な紡錘体の把柄《とって》とでも云いたいような恰好をしているのであった。枝に取り付いている上端は眼に見えないほど小さい糸になっているので、風の吹く度に簑はさまざまに複雑な振子運動をし、また垂直な軸のまわりに廻転もしていた。今にも落ちそうに見えるが実はなかなかしっかりしているのであった。簑虫自身は眠っているのか、あるいは死んでいるのか、ともかくもこの干《ひ》からびた簑を透して中に隠れた生命の断片を想像するのは困難なように思われた。それで私は今書きかけた端書のさきへこんな事を書き加えた。
「今僕の眼の前の紅葉の枝に簑虫が一匹いる。僕は蟻や蜂や毛虫や大概の虫についてその心持と云ったようなものを想像する事が出来ると思うが、この簑虫の心持だけはどうしても分らない。」
これだけで端書の余白はもうなくなってしまったが、これが端緒になって私はこの虫について色々の事を考えたり想像したりした。
昔の学者などの中にはほとんど年中、あるいは生涯貧しい薄暗い家の中に引き籠ったきりで深い思索や瞑想に耽っていたような人もあったらしい。こんな人達はすぐ隣に住んでいるゴシップ等の眼にはあるいはちょうどこの簑虫のように気の知れない、また存在の朧気《おぼろげ》なものとしか見えなかったかもしれない。現世とはただわずかな糸でつながって、飄々《ひょうひょう》として風に吹かれているような趣があったかもしれない。ただ簑虫とちがうのは、幾年かの後に思索研究の結果を発表して、急にあるいは徐々に世間を驚かした事である。しかし中には纏《まと》まった結果を得なかったり、また得てもそれを発表しないで死んでしまった者も沢山あるかもしれない。そんな人は脇目にはこの簑虫と変ったところはなかったかもしれない。
こんな空想に耽《ふけ》りながら見ていると、簑の上に隙間なく並んでいる葉柄の切片が、なんだかこの隠れた小哲学者の書棚に背皮を並べた書物ででもあるような気がした。
この簑について思い出すのは、私が子供の時分に、母か誰かに教わったままに、簑虫の裸にしたのを細かに刻んだ色々の布片と一緒にマッチの空箱の中に入れて、五色の簑を作らせようとした事である。この試験の結果は熱心な期待を裏切って、虫は死んでしまった。それにもかかわらず、美しい五彩の簑を纏うた虫の心象《イメージ》だけは今も頭の中に呼び出す事が出来る。ところが、つい近頃私の子供等がやはり祖母にこの話を聞いて私の失敗した経験を繰返していたようである。いったいこの話は事実であろうか。事実であるとしても稀有《けう》な事であるか、それとも普通な事であろうか。私の母自身にも実際自分で経験したのではないかもしれないが、つい今までそれを確かめてはみなかった。また別に今すぐ確かめようとも思っていない。そういう種類の事が容易《たやす》くたしかめられようとは思わないからである。
こんな事からつぎつぎに空想をたどりながら、私は人間のあらゆる知識に関するいわゆるオーソリティというものの価値に考え及んだ。そして考えれば考えるほど、今まで安心だとばかり思っていた色々の知識の根柢が、脚元からぐらついて来るような気がした。しかしその時考えた事はここに書くにはあまりに複雑でそしてデリケートな、そして纏りのつきかねるものであった。
このような事を考えた翌日の同じ時刻に私は例のように二階の机の前に坐った。そして昨日の簑虫はと思っておおよそこの辺かと思う見当を捜してみたが見付からない。そのうちにずっと高いところの大きな枝に何か動くものがあると思ってよく見ると、それが昨日のあの把柄のついた簑虫であった。ただ意外な事には、昨日生死も分らないように静まり返っていたあの小哲学者とは思われないように活動しているのであった。簑の上端から黒く光った頭が出ていた。それが波を打って動くにつれて紡錘体は一刻みずつ枝の下側に沿うて下りて行った。時々休んで何か捜すような様子をするかと思うとまた急いで下りて行く、とうとう枝の二叉《ふたまた》に別れたと
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