ないようであった。なんだか予想が外れたというだけでなしに一種の――ごく軽い淋しさといったような心持を感じた。
 それから後はいつまで経っても、もう蜂の姿は再び見えなかった。私はどうしたのだろうと色々な事を想像してみた。往来で近所の子供にでも捕えられたか、それとも私の知らないような自然界の敵に殺されたのかとも考えてみた。しかしまたこの蜂が今現にどこか遠いところで知らぬ家の庭の木立に迷って、あてもなく飛んでいるような気もした。
 私は親しい友達などが死んだ後に、独りで街の中を歩いていると、ふとその友が現に同じ東京のどこかの町を歩いている姿をありあり想像して、云い知れぬ淋しさを感ずる事があるが、この蜂の場合にもこれとよく似た幻を頭に描いた。そして強い眩しい日光の中にキラキラして飛んでいる蜂の幻影が妙に淋しいものに思われて仕方がなかった。
 ある日何かの話のついでにSにこの話をしたら、Sは私とはまるでちがった解釈をした。蜂は場所が悪いから断念して外へ移転したのだろうというのである。そう云われてみればあるいはそうかもしれない。実際両側に広い空地を控えたこの垣根では嵐が吹き通したり、雨に洗われたり、人の接近する事が頻繁であったりするので蜂にとってはあまり都合のいい場所ではない。しかし果して蜂がその本能あるいは智慧で判断していったん選定した場所を、作業の途中で中止して他所《よそ》へ移転するというような事があるものか、ないものか、これは専門の学者にでも聞いてみなければ判らない事である。
 もしSの判断が本当であったとしたら、つまり私は自分の想像の中で強いて憐れな蜂を殺してしまって、その死を題目にした小さな詩によって安直な感傷的の情緒を味わっていた事になるかもしれない。しかしいずれにしても私の幻想を無雑作に事務的に破ってしまったSに対して、軽い不平を抱かないではいられなかった。そしてこんな些細な事柄にもオプチミストとペシミストの差別は現われるものかと思ったりした。
 今日覗いてみると蜂の巣のすぐ上には棚蜘蛛《たなぐも》が網を張って、その上には枯葉や塵埃がいっぱいにきたなくたまっている。蜂の巣と云いながら、やはり住む人がなくて荒れ果てた廃屋のような気がする。この巣のすぐ向う側に真紅のカンナの花が咲き乱れているのがいっそう蜂の巣をみじめなものに見せるようであった。
 私はともかくこの巣を来年の夏までこのままそっとしておこうと思っている。来年になったらこの古い巣に、もしや何事か起りはしないかというような予感がある。

      二 乞食

 ある朝Qが訪ねて来た。
 この男は、私の宅へ来る時には、きっと何か一つ二つ皮肉なそして私を不愉快にするような暗示に富んだ言詞《ことば》を用意して来るように見える。そして話しているうちに適当あるいは不適当な機会を捕えてその言詞を吐き出してしまうまでは落ち付く事が出来ないように見える。ともかくもそれを云ってしまうと、それまでひどく緊張してきつい表情をしていた彼の顔が急に柔らかになってくる、そして平生気持の悪いような青黒い顔色には少し赤味さえさして来て、見るから快いような感じに変化するのである。
 私はこの男の癖をよく知っていて、かなり久しく馴らされているし、またそのような特殊な行為の動機も充分に諒解しているので、別に大して気にしないつもりではいるが、それでもこの男と話した後ではどこか平常とはちがった心持になっているものと思われる。そうだという事が、その後に自分の身辺に起る些細な事柄に対する自分の情緒の反応によって証明される場合があるように見える。
 この日Qが用意して来た材料は、私の病気に関した事であった。つまり私が、わざわざ自分の病気をわるくして長引かしては密かに喜んだりする一種の精神病者に似た心理状態にあるという事を巧みに暗示すると云うよりはむしろ露骨に押しつけようというのであった。自分はQに云われる前から自分の頭の奥底にどこかこのような不合理な心理状態が潜んでいるのではないかと疑ってみた事があっただけにこのQの暗示はかなりのききめがあった。
 Qが帰ってから昼飯を食った。それから子供部屋へ行ってオルガンをひいた。
 その日はよく晴れて暑い日であった。子供部屋の裏の縁先にある花壇には、強烈な正午過ぎの日光が眩しいように輝いて、草木の葉もうなだれているようであった。花豆の赤い花が火のように見えた。しかしこの部屋はいちばん風がよく吹き通すので、みんながここに集まっていた。子供等は寝転んで本を見ているのもあれば、絵具箱を出して絵を描いているのもあった。老人は襖《ふすま》に背をもたせて御伽噺《おとぎばなし》の本を眼鏡でたどっていた。私は裏庭を左にした壁のオルガンの前に腰かけて、指の先の鍵盤から湧き上がる快い楽音の波に包
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