小さな出来事
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)私の宅《うち》の庭は

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)方三|間《げん》ばかりの空間

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)さんしち[#「さんしち」に傍点]の葉を
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      一 蜂

 私の宅《うち》の庭は、わりに背の高い四《よ》つ目垣《めがき》で、東西の二つの部分に仕切られている。東側の方のは応接間と書斎とその上の二階の座敷に面している。反対の西側の方は子供部屋と自分の居間と隠居部屋とに三方を囲まれた中庭になっている。この中庭の方は、垣に接近して小さな花壇があるだけで、方三|間《げん》ばかりの空地は子供の遊び場所にもなり、また夏の夜の涼み場にもなっている。
 この四つ目垣には野生の白薔薇をからませてあるが、夏が来ると、これに一面に朝顔や花豆を這《は》わせる。その上に自然に生える烏瓜《からすうり》も搦《から》んで、ほとんど隙間のないくらいに色々の葉が密生する。朝戸をあけると赤、紺、水色、柿色さまざまの朝顔が咲き揃っているのはかなり美しい。夕方が来ると烏瓜の煙のような淡い花が繁みの中から覗いているのを蛾《が》がせせりに来る。薔薇の葉などは隠れて見えないくらいであるが、垣根の頂上からは幾本となく勢いの好い新芽を延ばして、これが眼に見えるように日々生長する。これにまた朝顔や豆の蔓がからみ付いてどこまでも空へ空へと競っているように見える。
 この盛んな勢いで生長している植物の葉の茂りの中に、枯れかかったような薔薇の小枝から煤《すす》けた色をした妙なものが一つぶら下がっている。それは蜂の巣である。
 私が始めてこの蜂の巣を見付けたのは、五月の末頃、垣の白薔薇が散ってしまって、朝顔や豆がやっと二葉の外の葉を出し始めた頃であったように記憶している。花の落ちた小枝を剪《き》っているうちに気が付いて、よく見ると、大きさはやっと拇指《おやゆび》の頭くらいで、まだほんの造り始めのものであった。これにしっかりしがみ付いて、黄色い強そうな蜂が一匹働いていた。
 蜂を見付けると、私は中庭で遊んでいる子供達を呼んで見せてやった。都会で育った子供には、こんなものでも珍しかった。蜂の毒の恐ろしい事を学んだ長子等は何も知らない幼い子にいろんな事を云って警《いまし》
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