来年の夏までこのままそっとしておこうと思っている。来年になったらこの古い巣に、もしや何事か起りはしないかというような予感がある。

      二 乞食

 ある朝Qが訪ねて来た。
 この男は、私の宅へ来る時には、きっと何か一つ二つ皮肉なそして私を不愉快にするような暗示に富んだ言詞《ことば》を用意して来るように見える。そして話しているうちに適当あるいは不適当な機会を捕えてその言詞を吐き出してしまうまでは落ち付く事が出来ないように見える。ともかくもそれを云ってしまうと、それまでひどく緊張してきつい表情をしていた彼の顔が急に柔らかになってくる、そして平生気持の悪いような青黒い顔色には少し赤味さえさして来て、見るから快いような感じに変化するのである。
 私はこの男の癖をよく知っていて、かなり久しく馴らされているし、またそのような特殊な行為の動機も充分に諒解しているので、別に大して気にしないつもりではいるが、それでもこの男と話した後ではどこか平常とはちがった心持になっているものと思われる。そうだという事が、その後に自分の身辺に起る些細な事柄に対する自分の情緒の反応によって証明される場合があるように見える。
 この日Qが用意して来た材料は、私の病気に関した事であった。つまり私が、わざわざ自分の病気をわるくして長引かしては密かに喜んだりする一種の精神病者に似た心理状態にあるという事を巧みに暗示すると云うよりはむしろ露骨に押しつけようというのであった。自分はQに云われる前から自分の頭の奥底にどこかこのような不合理な心理状態が潜んでいるのではないかと疑ってみた事があっただけにこのQの暗示はかなりのききめがあった。
 Qが帰ってから昼飯を食った。それから子供部屋へ行ってオルガンをひいた。
 その日はよく晴れて暑い日であった。子供部屋の裏の縁先にある花壇には、強烈な正午過ぎの日光が眩しいように輝いて、草木の葉もうなだれているようであった。花豆の赤い花が火のように見えた。しかしこの部屋はいちばん風がよく吹き通すので、みんながここに集まっていた。子供等は寝転んで本を見ているのもあれば、絵具箱を出して絵を描いているのもあった。老人は襖《ふすま》に背をもたせて御伽噺《おとぎばなし》の本を眼鏡でたどっていた。私は裏庭を左にした壁のオルガンの前に腰かけて、指の先の鍵盤から湧き上がる快い楽音の波に包
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