いねい》に礼を云ってから、とぼとぼと片足を引きずりながら出て行くのであった。
「どうぞ、御からだを御大事に」と云ったこの男の一言が、不思議に私の心に強く滲み透るような気がした。これほど平凡な、あまりに常套であるがためにほとんど無意味になったような言葉が、どうしてこの時に限って自分の胸に喰い入ったのであろうか。乞食《こじき》の眼や声はかなり哀れっぽいものであったが、ただそれだけでこのような不思議な印象を与えたのだろうか。
嗄《しゃが》れた声に力を入れて、絞り出すように云った「どうぞ」という言葉が、彼の胸から直ちに自分の胸へ伝わるような気がすると同時に、私の心の片隅のどこかが急に柔らかくなるような気がした。そしてもう一度彼を呼び返して、何かもう少しくれてやりたいような気さえした。
黙って乞食の挙動を見ていた子供等は、彼が帰ってしまうと、額のきずや、片手のない事などを小声でひそひそと話し合っていたが、間もなく、それぞれの仕事や遊びに気を奪われてしまったようである。子供等の受けた印象は知る事は出来ない。
乞食は私の病気の事などはもとより知っているはずはなかった。おそらく彼は誰の前にも繰返すお定まりの言詞を繰返したに過ぎないだろう。ただそれがQの冷罵《れいば》とペルゴレシの音楽とのすぐ後に出くわしたばかりに、偶然自分の子供らしいイーゴチズムに迎合したのかもしれない。
しかし私が彼の帰って行く後姿を見た時に突然|閃《ひらめ》いた感傷的な心持の中には、後から考えるとかなり色々なものが含まれていたようである。例えば自分があの乞食であって門から門へと貰って歩くとする。どこの玄関や勝手口でも疑いと軽侮の眼で睨《にら》まれ追われる。その屈辱の苦味をかみしめて歩いているうちに偶然ある家へはいると、そこは冷やかな玄関でも台所でもなくそこに思いがけない平和な家庭の団欒《だんらん》があって、そして誰かがオルガンをひいていたとする。その瞬間に乞食としての自分の情緒がいくらかの変化を受けはしないだろうか。少なくともこの時のこの男はそんな心持がしたのではないかという気がする。彼の顔の表情には私がこれまで見たあらゆる乞食に見られない柔らかく温かいある物があった。
彼はそれきり来ない。もう一度来ないかしらとも思うが、やはりもう来てくれない方がいい。
三 簑虫
八月のある日、空は
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