書簡(2[#「2」はローマ数字2、1−13−22])
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)懇篤《こんとく》な御すすめ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)結局|不知不識《しらずしらず》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](昭和八年一月『アララギ』)
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拝復。始終『アララギ』を送って頂いておりながらほんの時々しか読んでいないので甚だすまない気がしております。今度二十五周年記念号を出すので何か書くようとの懇篤《こんとく》な御すすめがありましたので何かと考えてみましたが右様の次第でありますからほとんど何も申上げる材料はないのでありますが、せっかくの御すすめでありますから、ただほんの少しばかり思い付いたことを申上げたいと思います。
私ども平生自分で歌を作っていないものにとっては、ただ一本立の歌に対する興味はどうしても薄いようであります。しかし連作風に数首を連ねたものには、一種不思議な興味を感じさせられます。一首一首の巧拙などはもちろんよく分らなくても、全体として見たときに感ずる一種の雰囲気のようなものがあって、それが色々暗示を与えるからであります。連作にもいろいろありましょうが、例えば雪なら雪をいろいろの角度からいろいろの距離で眺めたものも面白くないことはありませんが、しかし私どもにはそういうのよりも、むしろ、表面上何の関係もないような多種の影像が連立していて、叙景や抒情が入り乱れ、時々思いがけもないようなものが飛び出して来る方がどうも面白く感ぜられます。そういう場合には、眼前の数首の歌で一つの面を作っているとすると、その面の上にも下にもいくつもの面が限りもなく層状に重畳《ちょうじょう》していて、つまり一つの立体的の世界がある、その世界の一つの断面がくっきり描かれているような気がします。それである一つの歌と次の歌とが表面上関係はないようでも、それから少し下層へ掘込んで行くとどこかで、しっかり必然的につながっているように思われ、それを掘込んで行くときに結局|不知不識《しらずしらず》に自分自身の体験の世界に分け入ってその世界の中でそれに相当するつながりを索《もと》めることになります。その捜索の経路の中に数限りもない過去の夢のような影像が眼前を通過するのであります。
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