の捕鯨の光景がかなり鮮明な影像となって四十年後の今日もまだ保存されているのである。
 室津の宿屋の主人はかなりのお婆さんであったが、われわれ二人の中学生の初旅を珍しがって大変にもてなしてくれた上に「珍しいものを見せて上げよう」と云って持出して来たのが一巻の絵巻物であった。よほど貴重なものと見えて、内証で見せてやるという条件つきであったような気がする。残念ながら詳しいことは覚えていないが、とにかくその巻物の中にはありとあらゆる鯨の種類それから親類筋のいるか、すなめりの類の精細な写生図が羅列してあったのでわれわれ二人の中学生は眼を丸くしてそれを点検したばかりでなく、婆さんの許可を得たかどうかそこまでは覚えないが、とにかく二人の写生帳の中へその主なるものを写しとったのであった。この鯨絵巻の写しや、硯石で昔から知られた行当岬《ぎょうとうざき》のスケッチや、祖先の出身だという一世一海和尚の墓の絵などが郷里の家に保存してあったはずであるが、いつの前にかもう無くなってしまったか、それともまだ倉の中のどこかに隠れているか不明である。
 この鯨の絵巻物はおそらく昔の御鯨方に伝わった最貴重な伝書のようなも
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