たのであったが、財界の嵐で父なる富豪が没落の悲運に襲われたために、その令嬢なるKは今では自分の腕一つで働いて生活しているという話をファンの一人であるところのSから時々聞かされていたので、その話をこの青バスの中の目前の少女と結びつけて考えてみると、それですべてが無理なく説明されるような気がした。
 二、三年前Sと大久保余丁町《おおくぼよちょうまち》の友人Mを尋ねての帰りに電車通りへ出ると、そこの路地の入口に一台の立派な自動車が止まっていた。そこへ折から乗込む女を見るとそれが紛れもない有名な人気女優のMYであった。劇場から差しむけの迎えの自動車であろうか、それとも自用車であろうか、とつまらぬ議論をしたことであった。
 そんなことを考えているうちに人形町《にんぎょうちょう》辺の停留場へ来るとストップの自働信号でバスはしばらく停車した。安全地帯に立っていた中年の下町女が何気なしにバスの間を覗いていたがふと自分の前の少女を見付けてびっくりしたような顔をして穴の明くほど見詰めていたようである。
 浜町近くなる頃には他の乗客はもうみんな下りてしまって、その少女と自分と二人きりになってしまった。「失礼
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