遍か思わず笑い出してしまった。近所の人が笑うのに釣込まれたせいもあるがやはり可笑《おか》しくなって笑ったのである。何が可笑しいと聞かれると実は返答に困るような甚だ他愛のない、しかしそれだけに純粋|無垢《むく》の笑いを笑ったようである。近頃珍しい経験をしたわけである。やはり「試験」のあとの青空の影響もあったのかもしれない。それでせっかくこんなに子供のように笑ったあとで、それから後のプログラムの名優達の名演技を見て緊張し感嘆し疲労するのは、少なくも今日の弛緩《しかん》の半日の終曲には適しないと思ったので、すぐに劇場を出て通りかかった車に乗った。車はいつもとちがう道筋をとって走り出したのでどこをどの方角に走っているか少しも分からない。大都市の冬に特有な薄い夜霧のどん底に溢れ漲る五彩の照明の交錯の中をただ夢のような心持で走っていると、これが自分の現在住んでいる東京の中とは思えなくなって、どこかまるで知らぬ異郷の夜の街をただ一人こうして行方も知らず走っているような気がして来た。
 とある河の橋畔に出ると大きなビルディングが両岸に聳《そび》え立って、そのあるものには窓という窓に明るい光が映っている
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