前の所には吉村氏《よしむらし》愛猫《あいびょう》としてその下に活字で「号」の字があった。おそらく「三毛号」とするところを略したのだろう。とにかくそれからしばらくは愛猫号という三毛のあだ名が子供らの間に流行していた。
 ある日学校から帰った子供が見慣れぬ子猫《こねこ》を抱いて来た。宅《うち》の門前にだれかが捨てて行ったものらしい。白い黒ぶちのある、そしてしっぽの長い種類のものであった。縁側を歩かせるとまだ足が不たしかで、羽二重《はぶたえ》のようになめらかな蹠《あしうら》は力なく板の上をずるずるすべった。三毛を連れて来てつき合わせると三毛のほうが非常に驚き恐れて背筋の毛を逆立てた。しかしそれから数時間の後に行って見ると、だれかが押し入れの中にオルガンの腰掛けを横にして作ってやった穴ぼこの中に三毛が横に長くねそべって、その乳房《ちぶさ》にこの子猫が食いついていた。子猫はポロ/\/\とかすかに咽喉《のど》を鳴らし、三毛はクルークルーと今までついぞ聞いた事のない声を出して子猫の頭と言わず背と言わずなめ回していた。一度目ざめんとして中止されていた母性が、この知らぬよその子猫によって一時に呼びさまさ
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