のすきまから出ようとして狂気のようにもがいているさまはほんとうに物すごいようであった。その時の三毛の姿勢と恐ろしい目つきとは今でも忘れる事のできないように私の頭に焼きつけられた。
 急いで戸をあけてやった。よく見ると、子猫のからだがまっ黒になっているし、三毛の四つ足もちょうど脚絆《きゃはん》をはいたように黒くなっている。
 このあいだじゅう板塀《いたべい》の土台を塗るために使った防腐塗料をバケツに入れたのが物置きの窓の下においてあった。その中に子猫を取り落としたものと思われた。頭から油をあびた子猫はもう明らかに呼吸が止まっているように見えたが、それでもまだかすかに認められるほどのうごめきを示していた。
 むごたらしい人間の私は、三毛がこの防腐剤にまみれた足と子猫で家じゅうの畳をよごしあるく事に何よりも当惑したので、すぐに三毛をかかえて風呂場《ふろば》にはいって石鹸《せっけん》で洗滌《せんじょう》を始めたが、このねばねばした油が密生した毛の中に滲透《しんとう》したのはなかなか容易にはとれそうもなかった。
 そのうちにもう生命の影も認められないようになった子猫はすぐに裏庭の桃の木の下に埋めた。埋めてしまった後に、もしやまだ生きていたのではなかったかという不安な心持ちがして来て非常にいやな気がした。しかしもう一度それを掘りかえして見るだけの勇気はどうしてもなかった。黒い油にまみれたあのおぞましい団塊に再び生命が復《かえ》って来ようとも思われなかった。
 そのうちに一同が帰宅して留守中に起こった非常な事件に関する私からの報告を聞いているうちに、三毛はまた第二第三の分娩《ぶんべん》を始めた。私はもうすべての始末を妻に託して二階にあがった。机の前にすわってやっと落ち着いてみると、たださえ病に弱っている自分の神経が異常な興奮のためにひどく疲れているのに気がついた。
 あとから生まれた三匹の子猫《こねこ》はみんなまもなく死んでしまった。物置きに入れられてからの三毛のはげしい肉体と精神の劇動がこの死産の原因になったのではないかと疑ってみた。この疑いはいつまでも私の心の奥のほうに小さな傷あとのようになって残っている。桃の木の下に三匹の同胞とともに眠っているあの子猫に関する一種の不安もおそらくいつまでも私の良心に軽い刺激となって残るだろう。
 産後の経過が尋常でなかった。三毛は全く食欲を失って、物憂《ものう》げに目をしょぼしょぼさせながら一日背を丸くしてすわっていた。さわって見るとからだじゅうの筋肉が細かくおののいているのが感ぜられた。これは打ち捨てておいては危険だと思われたので、すぐに近所の家畜病院へ連れて行かせた。胎児がまだ残っているらしいから手術をして、そしてしばらく入院させたほうがいいという事であった。
 十日ばかりの入院中を毎日のようにかわるがわる子供らが見舞いに行った。それが帰って来ると、三毛の様子がどういうふうであったかを聞いてみるが、いつも要領を得る事はできなかった。あまり頻繁《ひんぱん》に見に来ると猫の神経を刺激して病気にさわると言って医師から警告を受けて帰ったものもあった。
 物を言わない家畜を預かって治療を施す医者の職業は考えてみるとよほど神聖なもののような気がした。入院中に受けた待遇についてなんらの判断も記憶も持ち得ないし、また帰宅しても人間に何事も話す事のできないような患者に忠実親切な治療を施すという事があたりまえではあるがなんとなく美しい事のように思われた。
 退院後もしばらく薬をもらっていた。その散薬の包み袋が人間のと全く同じであるが、名前の所には吉村氏《よしむらし》愛猫《あいびょう》としてその下に活字で「号」の字があった。おそらく「三毛号」とするところを略したのだろう。とにかくそれからしばらくは愛猫号という三毛のあだ名が子供らの間に流行していた。
 ある日学校から帰った子供が見慣れぬ子猫《こねこ》を抱いて来た。宅《うち》の門前にだれかが捨てて行ったものらしい。白い黒ぶちのある、そしてしっぽの長い種類のものであった。縁側を歩かせるとまだ足が不たしかで、羽二重《はぶたえ》のようになめらかな蹠《あしうら》は力なく板の上をずるずるすべった。三毛を連れて来てつき合わせると三毛のほうが非常に驚き恐れて背筋の毛を逆立てた。しかしそれから数時間の後に行って見ると、だれかが押し入れの中にオルガンの腰掛けを横にして作ってやった穴ぼこの中に三毛が横に長くねそべって、その乳房《ちぶさ》にこの子猫が食いついていた。子猫はポロ/\/\とかすかに咽喉《のど》を鳴らし、三毛はクルークルーと今までついぞ聞いた事のない声を出して子猫の頭と言わず背と言わずなめ回していた。一度目ざめんとして中止されていた母性が、この知らぬよその子猫によって一時に呼びさまさ
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