尋ねさせたりした事もあったが、そうしていると夜明け方などにふいと帰って来た。平生はつやつやしい毛色が妙に薄ぎたなくよごれて、顔もいつとなく目立ってやせて、目つきが険しくなって来た。そして食欲も著しく減退した。
 うちの三毛が変などろぼう[#「どろぼう」に傍点]猫と隣の屋根でけんかをしていたというような報告を子供の口から聞かされる事もあった。
 私はなんとなしに恐ろしいような気がした。自分では何事も知らない間に、この可憐《かれん》な小動物の肉体の内部に、不可抗な「自然」の命令で、避け難い変化が起こりつつあった。そういう事とは夢にも知らない彼女は、ただからだに襲いかかる不可思議な威力の圧迫に恐れおののきながら、春寒の霜の夜に知らぬ軒ばをさまよい歩いているのであった。私は今さらのように自然の方則の恐ろしさを感じると同時に、その恐ろしさをさえ何のためとも自覚し得ない猫を哀れに思うのであった。
 そのうちにまたいつとなく三毛の生活は以前のように平静になったが、その時にはもう今までの子猫《こねこ》ではなくて立派に一人前の「母」になっていた。
 いつも出入りする障子の穴が、彼女のためには日ごとに狭くなって行くのであった。出入りのたびごとにその重い腹部をかなりに強く障子にぶっつけた。どうかすると無作法な玉よりもはげしい音を立ててやっとくぐり抜ける事もあった。人間でさえも、ほんの少しばかりいつもより鍔《つば》の広い麦藁帽《むぎわらぼう》をかぶるともう見当がちがって、いろいろなものにぶっつかるくらいであるから、いかに神経の鋭敏な三毛でも日々に進行するからだの変化に適応して運動を調節する事はできなかったにちがいない。それはとにかく私はそれがために胎児や母体に何か悪い影響がありはしないかという気がしたが、しかし別にどうするでもなくそのままにうっちゃっておいた。
 どんな子猫が生まれるだろうかという事が私の子供らの間にしばしば問題になっていた。いろいろな勝手な希望も持ち出された。そしてめいめいの小さな頭にやがてきたるべき奇蹟《きせき》の日を描いてそれを待ち遠しがっているのであった。今度生まれたのは全部うちで飼ってほしいという願いを両親に提出するのもあった。
 ある日家族の大部分は博覧会見物に出かけた。私は留守番をして珍しく静かな階下の居室で仕事をしていたが、いつもとはちがって鳴き立てる三毛の声が耳についた。食物をねだる時や、外から帰って来る主人を見かけてなくのとは少し様子がちがっていた。そしてなんとなく不安で落ち着き得ないといったようなふうで、私のそばへ来るかと思うと縁側に出たり、また納戸《なんど》の中に何物かを捜すようにさまよっては哀れな鳴き声を立てていた。
 かつて経験のない私にも、このいつにない三毛の挙動の意味は明らかに直感された。そして困ったものだと思った。妻はいないし、うちにいる私の母も年の行かぬ下女もいずれも猫《ねこ》の出産に際してとるべき適当の処置についてはなんらの予備知識も持ち合わせなかったのである。
 ともかくも古い柳行李《やなぎごうり》のふたに古い座ぶとんを入れたのを茶の間の箪笥《たんす》の影に用意してその中に三毛をすわらせた。しかし平生からそのすわり所や寝所に対してひどく気むずかしいこの猫は、そのような慣れない産室に一刻も落ち着いて寝てはいなかった。そして物につかれたようにそこらじゅうをうろついていた。
 午《ひる》過ぎに二階へ上がっていたら、階段の下から下女が大きな声を立てて猫の異状を訴えて来た。おりて来て見ると、三毛は居間の縁の下で、土ぼこりにまみれたねずみ色の団塊を一生懸命でなめころがしていた。それはほとんど生きているとは思われない海鼠《なまこ》のような団塊であったが、時々見かけに似合わぬ甲高《かんだか》いうぶ声をあげて鳴いていた。
 三毛は全く途方にくれているように見えた。赤子の首筋をくわえて庭のほうへ行こうとしているかと思うと、途中で地上におろしてまたなめころがしている。とうとうその土にまみれた、気味悪くぬれよごれたものをくわえて私たちの居間に持ち込んで来た。そして私の座ぶとんの上へおろして、その上で人間ならば産婆のすべき初生児の操作法を行なおうとするのである。私は急いで例の柳行李のふたを持って来て母子《おやこ》をその中に安置したが、ちょっとの間もそこにはいてくれないで、すぐにまた座敷じゅうを引きずり歩くのであった。
 当惑した私は裏の物置きへその行李を持ち込んで行って、そこに母子を閉じ込めてしまった、残酷なような気もしたが、家じゅうの畳をよごされるのは私には堪え難い不愉快であった。
 物置きの戸をはげしく引っかく音がすると思っていると、突然高い無双窓に三毛の姿が現われた。子猫《こねこ》をくわえたままに突っ立ち上がって窓
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