れたものと思われた。私は子を失った親のために、また親を失った子のために何がなしに胸の柔らぐような満足の感じを禁じる事ができなかった。
 三毛の頭にはこの親なし子のちび[#「ちび」に傍点]と自分の産んだ子との区別などはわかろうはずはなかった。そしてただ本能の命ずるがままに、全く自分の満足のためにのみ、この養児をはぐくんでいたに相違ない。しかしわれわれ人間の目で見てはどうしてもそうは思いかねた。熱い愛情にむせんででもいるような声でクルークルーと鳴きながら子猫《こねこ》をなめているのを見ていると、つい引き込まれるように柔らかな情緒の雰囲気《ふんいき》につつまれる。そして人間の場合とこの動物の場合との区別に関する学説などがすべてばからしいどうでもいい事のように思われてならなかった。
 どうかすると私はこのちび[#「ちび」に傍点]が、死んだ三毛の実子のうちの一つであるような幻覚にとらえられる事があった。人間の科学に照らせばそれは明白に不可能な事であるが、しかし猫《ねこ》の精神の世界ではたしかにこれは死児の再生と言っても間違いではない。人間の精神の世界がN元《ディメンジョン》のものとすれば、「記憶」というものの欠けている猫の世界は(N−1)元《ディメンジョン》のものと見られない事もない。
 ちび[#「ちび」に傍点]は大きくなるにつれてかわいくなって行った。彼は三毛にも玉にもない長いしっぽをもっていると同時に、また三毛にも玉にもない性情のある一面を備えていた。たとえば三毛が昔かたぎの若い母親で、玉が田舎出《いなかで》の書生だとすれば、ちびには都会の山の手の坊《ぼっ》ちゃんのようなところがあった。どこか才はじけたような、しかしそれがためのいやみのない愛くるしさがあった。
 小さな背を立てて、長いしっぽをへの字に曲げて、よく養母の三毛にけんかをいどんだが、三毛のほうでは母親らしくいいかげんにあやしていた。あまりうるさくなると相手になってかなり手荒く子猫の首をしめつけてころがしておいて逃げ出す事もあった。しかしそんな場合に口ぎたなくののしらないだけでも人間の母親のある階級のものよりははるかに感じがよかった。また子猫のほうでもどんなにひどくされてもいじけたり、すねたりしない点がわれわれの子供よりもずっと立派なように思われた。
 もう一人立《ひとりだ》ちができるようになって、ちびは親戚《しんせき》の内へもらわれて行った。迎いの爺《じい》やが連れに来た時に、子供らは子猫《こねこ》を三毛のそばへ連れて行って、別れでも惜しませるつもりで口々に何か言っていたが、こればかりはなんの事とも理解されようはずはなかった。ちびが永久に去った後に三毛はこの世界に何事も起こらなかったかのように縁側の柱の下にしゃがんで気持ちよさそうに目をしょぼしょぼさせていた。それが罪業の深いわれわれ人間には妙にさびしいものに見えるのであった。それから一両日の間は時々|子猫《こねこ》を捜すかと思われるような挙動を見せた事もあったが、それもただそれきりで、やがて私の家の猫にはのどかな平和の日が帰って来た。それと同時に、ほとんど忘れられかかっていた玉の存在が明らかになって来た。
 子猫に対して玉は「伯父《おじ》さん」というあだ名をつけられていた。そしてはなはだ冷淡でそっけない伯父さんとして、いつもながら不利な批評の焦点になっていたが、もうそれも過去になって、彼もまたもとの大きな子猫になってしまった。子猫に対して見るといかにも分別のある母親らしく見えていた三毛ですらも、やはりそうであった。いちばん小さい私の子供に引っかかえられて逃げようとしてもがきながら鳴いているところを見たりすると、なおさらそういうディスイリュージョンを感じるのであった。
 夏の末ごろになって三毛は二度目の産をした。今度も偶然な吻合《コインシデンス》で、ちょうど妻が子供を連れて出かけるところであったが、三毛の様子がどうも変であったから少し外出を見合わして看護させた。納戸《なんど》のすみの薄暗い所へいつかの行李《こうり》を置いてその中に寝かせ、そしてそろそろ腹をなでてやるとはげしく咽喉《のど》を鳴らして喜んだそうである、そしてまもなく安々と四匹の子猫を分娩《ぶんべん》した。
 人間のこしらえてやった寝床ではどうしても安心ができないと見えて、母猫《ははねこ》はいつのまにか納戸《なんど》の高い棚《たな》の奥に四匹をくわえ込んだ。子供らはいくら止めても聞かないで、高い踏み台を持ち出してそれをのぞきに行くのであった。私はなんとはなしにチェホフの小品にある子猫と子供の話を思い浮かべて、あまりきびしくそれをとがめる気にもなれなかった。
 子猫《こねこ》の目のあきかかるころになってから、時々棚の上からおろして畳の上をはい回らせた。そういう時は
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