の不満から腹を立てている。しかし周囲の人はそれをきわめて軽く取り扱っている、そうした光景を見るとき自分は子供の時分から妙に一種の悲哀に似たあるものを感じる癖があったような気がする。小説や戯曲でもそういう場面がしばしば自分を感傷的にした。あらゆる悲劇中でそういうものをいちばん悲劇的に感ぜられたような気がする。なぜだかわからない。自分が年を取って後にもしかあんなになったらさぞさびしいだろうと思う、子供としてははなはだしい取り越し苦労のせいであったろうとばかりも思われない。何か幼時の体験と結びついた強い印象の影響かもしれない。
 今ではもう自分自身が老人になりかけている。人が見たらもうなっているのかもしれない。そろそろもうアイスクリームの冷たくないのに屈辱の余味を帯びた憤懣を感じ、タオルの偶然な差別待遇にさえ世に捨てられでもしたような悲しみと憤りを覚えることの可能な年齢に近づきつつあるのかもしれない。
 こんな事をうかうか考えている自分を発見すると同時にまた、現在この眼前の食堂の中に期せずして笑い上戸おこり上戸泣き上戸|三幅対《さんぷくつい》そろった会合があったのだという滑稽《こっけい》なる
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