に来てとまる。そこでステッキをその長軸のまわりに静かに回転させると、とんぼはステッキの回るのとは逆の方向にからだを回して、周囲の空間に対して、常に一定の方向を保とうとする。そういう話を前日子供たちから聞いていたのではたして事実かどうか実験してみようと思った。
帽子を離れたとんぼが道ばたの草に移った。そのそばにステッキの先端を近づけて二三度あやつっていたら、うまく乗り移って来た。静かにステッキを垂直に取直しておいて、そろそろ回転させてみた。はじめはいっこうに気づかないようであるが九十度以上も回転すると何かしら異常を感じるらしく、つかまっている足を動かしてからだをねじ向ける。しかしそれはわずかに十度か二十度ぐらい回転するだけで、すっかり元の方向まで向き直るようなことはない。なんべんも繰り返してみたが同じ結果であった。
道路に沿うて頭の上を電線が走っている。それにたくさんのとんぼが止まっているが、それがみんなだいたい東を向いている。ステッキのとんぼが最初に止まったのと同じ向きである。
夕日がもう低く傾いていて、とんぼはみんなそれに尻《しり》を向けているのであった。当時ほとんど無風で、少なくも人間に感じるような空気の微動はなかったので、ことによるととんぼはあの大きな目玉を夕日に照りつけられるのがいやで反対のほうに向いているのではないかとも思われた。
試みに近い範囲の電線に止まっている三十五匹のとんぼの体軸と電線とのはさむ角度を一つ一つ目測して読み取りながら娘に筆記させた。その結果を図示してみるとそれらの角度の統計的分布は明瞭《めいりょう》に典型的な誤差曲線を示している。三十五匹のうち九匹はだいたい東西に走る電線に対してその尻を南へ十度ひねって止まっている。この最大|頻度《ひんど》の方向から左右へ各三十度の範囲内にあるものが十九匹である。つまり三十五のうちの二十八だけ、すなわち八十プロセントだけは、三十度以内まで一定の方向にねらいをつける能力をもっていたといわれる。
残りの二十プロセントすなわち七匹のうちで三匹だけは途方もなく見当をちがえて、最大|頻度《ひんど》方向からそれぞれ百三十度と百四十度と百六十度というむしろ反対の方向をむいていた。人間流に考えるとこの三匹はのんきで無神経で、つまり環境への順応が遅鈍であるのか、それともつむじ曲がりのあまのじゃくであるのかとも
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