思われる。しかしまた考えてみると、とんぼの方向を支配する環境的因子はいろいろあるであろうから、他の多数のとんぼが感じないようなある特殊な因子に敏感な少数のものだけが大衆とはちがった行動を取っているのかもしれないと思われた。そのようなことの可能性を暗示する一つの根拠は、最大頻度方向より三十度以上の偏異を示す七匹のどれもがみんなその尾端を電線の南側に向けており、反対に北側に向けたのはただの一匹もなかったという事実である。
 その翌日の正午ごろ自分たちの家の前を通っている電線に止まったとんぼを注意して見ると、やはりだいたい統計的には一定方向をむいているが、しかし、太陽に尻《しり》を向けるという仮説には全然適合しない方向を示していた。ちょうど正午であるから、たとえどちらを向いてみても目玉を照らされるのはだいたい同じだから、少々この場合には何か他の環境条件に支配されているだろうと思われた。
 それから、ずっと毎日電線のとんぼのからだの向きを注意して見たが、結局彼らの体向を支配する第一因子は風であるということになった。地上で人体には感じない程度の風でも巻き煙草《たばこ》に点火したのを頭上にかざしてみれば流向がわかる、その程度の風にとんぼは敏感に反応して常に頭を風に面するような態度を取るのである。
 もっとも、地上数メートルの間では風速は地面から上へと急激に増すから、電線の高さでは人間の感ずるよりはいくらか強い気流があるには相違ない。
 谷あいの土地であるから地形により数町はなれると風向がよほどちがう場合が多い。そういう場合に、いつでもまたどこでも、その時その場所の風に頭を向けている。時刻がだいたい同じなら太陽の方向は同じであると考えていいのであるから、太陽の影響は、もしいくらかあるにはあるとしてもそれは第二次的以下のものであるという結論になるのである。
 この瑣末《さまつ》な経験はいろいろなことを自分に教えてくれた。
 最初気づいた時にはおそらく、微弱な風がちょうど偶然太陽の方向に流れていたであろう、それを考えないで、とんぼの尻《しり》をねじ向けたのは太陽だと早のみ込みをしてしまったのであった。
 しかしまたこの事から、とんぼの止まっているときの体向は太陽の方位には無関係であるという結論を下したとしたら、それはまた第二の早合点という錯誤を犯すことになるであろう。この点を確かめる
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