伍して棺の片側に居並んでいた。参拝者の来るのが始めのうちは引切りなしに続いてくるが三十分もたつと一時まばらになりやがてちょっと途切れる。またひとしきりどかどかと続いて来るかと思うとまたぱったり途絶えるのである。それが何となく淋しいものである。
 しばらく人の途絶えたときに、仏になった老人の未亡人が椅子に腰かけて看護に疲れたからだを休めていた。その背後に立っていたのは、この未亡人の二人の娘で、とうに他家に嫁いで二人ともに数人の子供の母となっているのであるが、その二人が何か小声で話しながら前に腰かけている老母の鬢《びん》の毛のほつれをかわるがわるとりあげて繕《つくろ》ってやっている。つい先刻までは悲しみと疲れとにやつれ果てていた老母の顔が、さも嬉しそうに、今まで見たことのないほど嬉しそうにかがやいて見えるのであった。
 なんだか非常に羨ましいような気がして同時に今まで出なかった涙が急に眼頭を熱くするのを感じた。

         五

 八十三で亡くなった母の葬儀も済んで後に母の居間の押入を片付けていたら、古いボールの菓子箱がいくつか積み重ねてあるのに気がついた。何だろうと思って明けてみると、箱の奥に少しずつ色々の菓子の欠けらが散らばっていた。それを見たときにはっと何かしら胸を突かれるような気がして、張りつめて来た心が一時にゆるみ、そうして止処《とめど》のない涙が流れ出るのであった。

         六

 ある食堂の隣室に自働電話の自働交換台がある。同じような筒形のものが整列し、それが数段に重なっている。食事をしながらぼんやり見ていると、ときどきあちこちに小さな豆電燈がついたり消えたりする。それらの灯のあるものは点《とも》ったと思うとパチ/\/\とせわしなく瞬《まばた》きをしてふっと消える。器械の機構を何も知らないものの眼で見ていると、その豆電燈の明滅が何を意味するのか全く見当がつかない。ただ全く偶然な蛍火《ほたるび》の明滅としか思われないであろう。しかし、この機構の背後には色々の人間がさまざまの用談をし取引を進行させており、あらゆる思惟と感情の流れが電流の複雑な交錯となってこの交換台に集散しているのである。
 現象を記載するだけが科学の仕事だというスローガンがしばしば勘違いに解釈されて、現象の背後に伏在する機構への探究を阻止しようとすることがあるような気がする。しかし、気をつけないと、自働交換台の豆電燈の瞬きを手帳に記録するだけで満足するようなことになる恐れがないとは云われない。

         七

 ドンキホーテの映画を見た。彼の誇大妄想狂の原因は彼の蒐集した書物にあるから、これを焼き捨てなければいけないというので大勢の役人達が大きな書物をかかえて搬《はこ》び出す場面がある。この画面が進行していたとき、自分の前の座席にいた男の子が突然大きな声で「アー、大掃除だ」と云った。つい近頃五月の大掃除があったのを思い出したのであろう。あちらこちらの暗がりで笑声が聞えた。
 子供は子供の見方をするように人々はまた思い思いの見方をしているであろう。自分はこの映画を見ているうちに、何だか自分のことを諷刺《ふうし》されるような気のするところがあった。自分の能力を計らないで六かしい学問に志していっぱしの騎士になったつもりで武者修行に出かけて、そうしてつまらない問題ととっ組み合って怪物のつもりでただの羊を仕とめてみたり、風車に突きかかって空中に釣り上げられるような目に会ったことはなかったかどうか、そんなことを考えない訳にはゆかなかった。
 しかしまたこんなことも考えた。この映画に現われて来る登場人物のうちで誰が一番幸福な人間かと思って見ると、天晴《あっぱ》れ衆人の嘲笑と愚弄の的になりながら死ぬまで騎士の夢をすてなかったドンキホーテと、その夢を信じて案山子《かかし》の殿様に忠誠を捧げ尽すことの出来たサンチョと、この二人にまさるものはないような気もするのであった。
 燃え尽した書物がフィルムの逆転によって焼灰《やけばい》からフェニックスのごとく甦って来る。巻き縮んだ黒焦《くろこげ》の紙が一枚一枚するすると伸びて焼けない前のページに変る。その中からシャリアピンの悲しくも美しいバスのメロディーが溢れ出るのであった。
 歴史に名を止めたような、えらい武人や学者のどれだけのパーセントが一種のドンキホーテでなかったか。現在眼前に栄えているえらい人達のうちにも、もしかしたら立派なドンキホーテが一人や二人はいるのではないか。そんなことを考えながら帝劇の玄関を下りて、雨のない六月晴の堀端《ほりばた》の薫風に吹かれたのであった。

         八

 随筆は誰でも書けるが小説はなかなか誰にでも書けないとある有名な小説家が何かに書いていたが全くその通り
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