雑記帳より(2[#「2」はローマ数字、1−13−22])
寺田寅彦
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)竹《たけ》の台《だい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](昭和九年八月『文学』)
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)パチ/\/\
−−
一
今年の春の花の頃に一日用があって上野の山内へ出かけて行った。用をすました帰りにぶらぶら竹《たけ》の台《だい》を歩きながら全く予期しなかったお花見をした。花を見ながらふと気の付いたことは、若いときから上野の花を何度見たかしれない訳であるが、本当に桜の花を見て楽しむ意味での花見をすることが出来るようになったのはほんの近年のことらしい、ということである。それ以前には花を見るつもりで行っても花よりは花を見に来ている人間が気になって仕方がなかった。人にこだわりながら花見をして帰ると頭が疲れてがっかりしたものである。家族連れで出かけるとその上に家族にこだわるので疲れ方が一層はげしかった。それだのに、どうしたことか、近頃はそれほど人にこだわらないで花が見られるようになったらしい。これが全くこだわらなくなる頃にはもう花が見られなくなるかもしれない。
二
あらゆる花の中でも花の固有の色が単純で遠くから見てもその一色しか見えない花と、色の複雑な隈取《くまど》りがあって、少し離れて見ると何色ともはっきり分らないで色彩の揺曳《ようえい》とでも云ったようなものを感じる花とがある。朱色の罌粟《けし》や赤椿などは前者の例であり、紫色の金魚草やロベリアなどは後者の例である。一体に朱赤色や濃黄色といったような熱色の花には単調な色彩が多くて紫青色がかったものや紅でも紫がかったものにはこうした色のかがよいとでもいったものがあるらしい。柱作りに適するローヤル・スカーレットという薔薇がある。濃紅色の花を群生させるが、少しはなれた所から見ると臙脂色《えんじいろ》の団塊の周囲に紫色の雰囲気のようなものが揺曳しかげろうているように見える。
人間の色彩といったようなものにもやはりこうした二種類があるように思われる。少なくも芸術的作品はそうであるし、またことによると科学的な仕事にもいくらかそういう区別があるような気がする。物理学の方面だけで見ると一体にドイツ学派の仕事は単色で英国派の仕事には色彩の陽炎《かげろう》とでもいったものを伴ったものが多いような気がするが、それは唯そんな気がするだけで具体的の説明は六《むつ》かしい。
三
人間の個性の差別が実に些細なことにまで現われるという一つの実例をついこの頃見付け出した。ある研究所の廊下に所員の姓名を記した木の札が掛け並べてある。片側は墨で片側は朱で書いてあるのを、出勤したときは黒字の方を出し、帰るときは裏返して朱字の方を出しておくのである。粗末な白木の札であるから新入りでない人の札はみんな手垢で薄黒く汚れている。ところが、人によっては姓名の第一番の文字のところだけに真黒に指の跡を印している人があるかと思うと、また二番目の字を汚している人もある。そうかと思うとまた下の二字を一様に汚して上の二字は綺麗に保存しているのもある。一方ではまたちっともそうした汚点をつけていない人もある。こうした区別が何を意味するかはそう簡単な問題ではないであろう。しかし、ことによるとこの姓名札の汚し方の同じ型に属する人には自ずから共通な素質があるかもしれない。そうして、人間の性情の型を判断する場合にこの方がむしろ手相判断などよりも、もっと遥かに科学的な典拠資料になりはしないかと想像される。
少なくも、真黒な指の痕《あと》をつけている人は、名札の汚れなどという事には全然無関心な人であるというくらいのことは云われそうである。わざわざ痕をつけて、それが日々黒くなるのを楽しみにする人はめったになさそうに思われる。
気が付いてみると自分は一番上の字の真中を真黒にしている。同じ仲間が近所に二人はある。この二人と自分とだいぶ似たところがあるらしい。自分の場合では、掛けた札がちゃんと後ろの板に密着しないと気持が悪いから掛けたあとでぱちんと札を押しつける、それを押しつけるには釘に近い上の方を押すのが一番機械的に有効だからそうするらしい、勿論無意識にそうするのである。
釘に引っかける札の穴の周囲を疵《きず》だらけにしている人と、そうでない人との区別もあるらしい。これと汚れ方との相関もあるらしいがまだよく調べてみない。
ともかくも恐ろしいことである。「悪いことは出来ない」わけである。
四
ある家の告別式に参列して親類の列に
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング