は少し気の毒になって来た。
 警官は電車を待たさないために車掌の姓名を自署さしてすぐに帰した。それから私に「貴方《あなた》御いそぎですか」と聞いた。私はこの警官に対して何となくいい感じを懐《いだ》くと同時に自分の軽率な行為を恥じる心がかなり強く起った。
 ここで自白しなければならない事は、私等が交番へはいると同時に、私は蟇口《がまぐち》の中から自分の公用の名刺を出して警官に差出した事である。事柄の落着を出来るだけ速やかにするにはその方がいいと思ってした事ではあるが、後で考えてみると、これは愚かなそして卑怯《ひきょう》な事に相違なかった。そしてこの上もない恥|曝《さら》しな所行であったが、それだけ私の頭が均衡を失っていたという証拠にはなる。
 警官の話によるとこの頃電車では鋏穴の検査を特に厳重にしているらしいという事である。そして車掌の方では鋏穴ばかりを注目するのだから止むを得ないというのである。そう云われてみると私は一言もない。
 そのうちに電車監督らしい人が来た。こういう事に馴れ切っているらしい監督はきわめて愛想よく事件を処理した。「決して御客様方の人格を疑うような訳ではありませんが
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