がよほど悪かったと見えて、どうもそういうあっさりした気になれなかった。別の切符を出すのはつまり自分の無実の罪を承認する事になるような気がしたので、私はそのまま黙って車を下りてしまった。車掌は踏台から乗り出すようにして、ちょっと首をかしげて右の手でものを捧げるような手つきをしながら「もう一枚頂きましょう」と云ってニヤニヤした。
下り立った街路からの暑い反射光の影響もあったろうし、朝からの胃や頭の工合の効果もあったかもしれないが、とにかくこの車掌の特殊な笑顔を見た時に私の全身の血が一時に頭の方へ駆け上るような気がした。そして思い返す間のないうちに
「それじゃあ、交番へ来てくれたまえ」とついこんな事を云ってしまった。交番はすぐ眼の前にあった。公平な第三者をかりなければ御互いの水掛論ではとても始末が着かないと思ったのである。車掌は「エエ、参りますよ、参りますとも、いくらでも参りますよ」とそう云って私について来た。
警官は私等二人の簡単な陳述を聞いているうちに、交番に電話がかかって来た。警官はそれを聞きながら白墨《はくぼく》で腰掛のようなところへ何か書き止めていた。なかなか忙しそうである。私
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