ういう時に私の悪い癖で、何かしら手に持っているものを無意識にいじる、この時は左の手の指先で切符の鋏穴のところをやはり無意識にいじっていたのである。これはどういう訳だか分らないが、例えば盲人が暗算をやる時に無意識に指先をふるわしているといくらか似た事かもしれない。
Z町の停留場で下りようとして切符を渡すと、それをあらためた車掌が、さらにもう一つパンチを入れてそれと見較べて「これはちがいます、私のよりは穴が大きい」と云った。私は当惑した。「でも、さっき君が自分で切ったばかりではないか。」こんな証拠にもならない事を云ってみた。
切り立ての鋏穴は円形から直角の扇形《セクトル》を取りのけた格好をしている。私の指先でもみ拡げられた穴にもその形の痕跡だけはちゃんと残っているが、穴の直径が二、三割くらいは大きくなって、穴の周辺が毛ば立ち汚れている。
もう一人の車掌もやって来て、同じ切符にもう一つ穴をあけた。「私のはこれですからね」と云って私の眼の前にそれを突きつけた。三つの穴が私を脅かすように見えた。
代りの切符をもう一枚出して下ろしてもらった方が簡単だとは思った。が、その時の私の腹の虫の居所
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