った。しかしそれはどうだか分らない事である。
 それにしても私はこの場面における車掌の態度をはなはだしく不愉快に感じた。たとえ相手の乗客が不正行為をあえてしたという証拠らしいものがよほどまでに具備していたにしても、人の弱点を捕えて勝ち誇ったような驕慢《きょうまん》な獰悪《どうあく》な態度は醜い厭な感じしか傍観している私には与えなかった。ましてそれが万一不正でなくて何かの誤謬《ごびゅう》か過失から起った事であったら果してどうであろう。もしも時代と場所がちがっていて、人が自分の生命に賭けても Honour を守るような場合であったらこれはただではすみそうもない。
 こんな事を考えて暑い日の暑苦しい心持をさらに増したのであった。
 それから四、五日経っての事である。私はZ町まで用があって日盛りの時刻に出掛けて行った。H町で乗った電車はほとんどがら明きのように空《す》いていた。五十銭札を出して往復を二枚買った。そしてパンチを入れた分を割《さ》き取って左手の指先でつまんだままで乗って行った。乗って行くうちに、その朝やりかけていた仕事のつづきを考えはじめて、頭の中はやがてそれでいっぱいになった。そ
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