日比谷止まりの電車が帝劇の前で止まった。前の方の線路を見るとそこから日比谷まで十数台も続いて停車している。乗客はゾロゾロ下り始めたが、私はゆっくり腰をかけていた。すると私の眼の前で車掌が乗客の一人と何かしら押問答を始めた。切符の鋏穴《はさみあな》がちがっているというのである。
 この乗客は三十前後の色の白い立派な男である。パナマらしい帽子にアルパカの上衣を着て細身のステッキをさげている。小さな声で穏やかに何か云っていたが、結局別に新しい切符を出して車掌に渡そうとした。
 二人の車掌が詰め寄るような勢いを示して声高《こわだか》にものを云っていた。「誤魔化《ごまか》そうと思ったんですか、そうじゃないですか。サア、どっちですか、ハッキリ云って下さい。」
 若い男は存外顔色も変えないで、静かに伏目がちに何か云いながら、新しい切符を差し出していた。車掌はそれを受取ろうともしないで
「サア、どっちです。……車掌は馬鹿じゃありませんよ」と罵《ののし》った。
 私は何だか不愉快であったからすぐに立って車を下りた。
 あの若い立派な男がわずかに一枚の切符のために自分の魂を売ろうとは私には思いにくか
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