、これも職務で御座いますからどうか悪しからず御勘弁を願います」と云う。こう云われてみると私はますます弱ってしまうのであった。私は恐縮して監督と警官に丁寧に挨拶して急いでそこを立去った。別の切符は結局渡さなかったのである。
仕合せな事には、こういう場合に必然な人だかりは少しもしなかった。それで私が今こんな事を書かなければ、私のこの過失は関係者の外には伝わらないで済むかもしれない。
私はその日|宅《うち》へ帰ってから、私には珍しいこの経験を家族に話した。すると家族の一人は次のような類例を持ち出してさらに空談に花を咲かせた。
この間子供等大勢で電車に乗った時に回数切符を出して六枚とか七枚とかに鋏を入れさせた。そして下車する時にうっかり間違えて鋏を入れないのを二、三枚交ぜて切って渡したらしい。それで手許にはそれだけ鋏の入ったのが残っていた訳である。そうとも知らず次に乗車した時にうっかり切符を渡すとこれは鋏が入っていますよと注意されてはなはだきまりの悪い思いをしたそうである。その時の車掌は事柄を全くビジネスとして取扱ったからまだよかったが、隣に坐っていた人が妙にニヤニヤしていたという事であ
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