うな篳篥《ひちりき》の音、訴えるような横笛の音が、互いに入り乱れ追い駆け合いながら、ゆるやかな水の流れ、静かな雲の歩みのようにつづいて行く。その背景の前に時たま現れる鳥影か何ぞのように、琴や琵琶《びわ》の絃音が投げ込まれる。そして花片の散り落ちるように、また漏刻《ろうこく》の時を刻むように羯鼓《かっこ》の音が点々を打って行くのである。
ここが聞きどころつかまえどころと思われるような曲折は素人《しろうと》の私には分らない。しかしそこには確かに楽の中から流れ出て地と空と人の胸とに滲透するある雰囲気のようなものがある。この雰囲気は今の文化的日本の中では容易に見出されないもので、ただ古い古い昔の物語でも読む時に、わずかにその匂だけを嗅ぐ事の出来るものである。
始め西洋音楽でも聞くようなつもりで、やや緊張した心持で聴いているうちに、いつとなしにこの不思議な雰囲気に包み込まれて、珍しくのんびりした心持になった。メロディなどはどうでもよかった。ただ春の日永の殿上の欄にもたれて花散る庭でも眺めているような陶然とした心持になった。
すべての音楽がそうであるか、どうか、私には分らない。しかし、どうもこの管弦楽というものは、客観的分析的あるいは批評的に聴くべきものではなくて、ただこの音の醸し出す雰囲気の中に無意識に没入すべきもののような気がする。そうする事によってこの音楽が本当の意味をもつような気がする。
これが雰囲気である以上、それに一度没入してしまえば、もう自覚的にそれを聞いていなくてもいい。この空気の中で私は食事をし、書物を読み、また六《むつ》かしい数学の問題を考える事すら可能なような気がする。
レオナルド・ダ・ヴィンチが画を描く時に隣室で音楽を奏でさせたという話があるが、これももちろんただ音楽の雰囲気だけを要求したものに相違ない。彼は恐ろしく多面的な忙しい頭脳をもっていた人である。時としては彼の神経は千筋に分裂して、そのすべての末端がいら立って、とても落着いた心持になれなかったのではあるまいか。そういう時に彼は音楽の醸し出す天上界の雰囲気に包まれて、それで始めて心の集中を得たのではあるまいか。
これはただ何の典拠のない私だけの臆測である。しかしそれはいずれにしても、今の苛立《いらだ》たしい世の中を今少し落着けて、人の心を今少し純な集中に導くためには、このような音楽も存
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