札幌まで
寺田寅彦
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)北上川《きたかみがわ》沿岸
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)荒涼|落莫《らくばく》たる
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)赤※[#「魚+覃」、第3水準1−94−50]《あかえい》の
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九月二十九日。二時半上野発。九時四十三分仙台着。一泊。翌朝七時八分青森行に乗る。
仙台以北は始めての旅だから、例により陸地測量部二十万分の一の地図を拡げて車窓から沿路の山水の詳細な見学をする。北上川《きたかみがわ》沿岸の平野には稲が一面に実って、もう刈入れるばかりになっているように見える。昨夜仙台の新聞で欠食児童何百という表題の記事を見て来たばかりの眼には、この目前見渡す限りの稲の秋は甚だそぐわない嘘のような眺めであった。豊葦原《とよあしはら》の瑞穂《みずほ》の国の瑞穂の波の中にいて、それでなかなか容易には米が食われないのである。どこかで何かが間違っている証拠である。しかしどこで何がどう間違っているかがなかなか容易に分らない問題であろう。
北上川の蛇行水路《メアンダー》の右岸の平野に低湿の沼沢地が一面に分布しているのは不思議である。河流が完成して後に一体の地盤が沈降したのではないかと疑われる。これは地形学者の説を聞いてみなければ分らない。
平泉《ひらいずみ》の旧跡はなるほど景勝の地である。都市というものの発達するに恰好《かっこう》な条件を具えていて、しかもそれが極めて小規模な地形であるのは面白いと思われた。鎌倉やまたこの平泉などのこうした地形を見ると、昔の日本の人口の少なかった程度が推測されるような気がするのである。昔のこれらの都市の面積と今の東京の面積との比が昔の日本の人口と今の人口との比に近いものを与えはしないかという想像が起る。
雨上りのせいもあろうが、樹木の緑の色がいかにも落着いた、重厚な、しかも美しい暗緑色をしている。低くてなだらかな山々が広く長く根を張っている姿も、やはりいかにも落着いたのんびりした感じを与える。それでいて山水遠近の配置が決して単調でなく、大様《おうよう》で少しもせせこましくない変化を豊富に示している。
岩手山《いわてさん》は予期以上に立派な愉快な火山である。四辺の温和な山川の中に神代の巨人のごとく伝説の英雄のごとく立ちはだかっている。富士が女性ならばこれは男性である。苦味もあれば渋味もある。誠に天晴《あっぱれ》な大和男児の姿である。この美しい姿を眺めながら妙な夢のような事を考えてみるのであった。
誰かも云ったように、砂漠と苦海の外には何もない荒涼|落莫《らくばく》たるユダヤの地から必然的に一神教が生れた。しかし山川の美に富む西欧諸国に入り込んだ基督《キリスト》教は、表面は一神でありながら内実はいつの間にか多神教に変化した。同時にユダヤ人の後裔《こうえい》にとっての一つの神なるエホバは自ずから姿を変えて、やがてドルになりマルクになった。その後裔の一人であったマルクスには、「経済」という唯一の見地よりしか人間の世界を展望することが出来なかった。それで彼の一神教的哲学は茫漠たるロシアの単調の原野の民には誠に恰好なものであり、満洲や支那の平野に極めてふさわしいものでなければならない。彼等の国には火山などは一つもないのである。これに反してエトナ、ヴェスヴィオ、ストロンボリ以下多数の火山を有する南欧イタリアの国土には当然にふさわしいシーザーが現われファシズムが生れた。今眼前にこの岩手山の実に立派な姿を眺め、その麓《ふもと》に展開する山川の実に美しい多様な変化を味わっていると、どうしても日本はやはり八百万《やおよろず》の神々の棲処《すみか》であり、英雄の国であり、哲人の国であり、食うことと飲むことの外にまだ色々様々大事なことのある国だとしか思われないのである。こんな理窟にも何にもならない理窟を考えながら、岩手山の山霊に惜しい別れを告げたのであった。
林檎畑《りんごばたけ》の案山子《かかし》は、樹の頂上からぴょこんと空中へ今正に飛び出した所だと云ったような剽軽《ひょうきん》な恰好をしている。農婦の派手な色の頬冠りをした恰好がポーランドあたりで見かけたスラヴ女の更紗《さらさ》の頬冠《ほおかぶ》りを想い出させる。それからまた、どこの国でも婆さんは同じような婆さんである。婆さんはユニヴァーサルに国境を超越した存在だと思う。婆さんに人種はないのである。
北へ行くほど人間の少なくなるのを感じる。たまたま停まる停車場に下りる人もなければ乗る人もない。低い綿雲が垂れ下がって乙供《おつとも》からは小雨が淋しくふり出した
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