ど悪趣味なものも少ないと思う。そうして、葬儀場は時として高官の人が盛装の胸を反らす晴れの舞台となり、あるいは淑女の虚栄の暗闘のアレナとなる。今北海の町に来て計らずこのつつましやかな葬礼を見て、人世の夕暮れにふさわしい昔ながらの行事のさびしおりを味わうことが出来たような気がした。
 〇時半の急行で札幌に向かう。北緯四十一度を越えても稲田の黄熟しているのに驚く。大沼公園はなるほど日本ばなれのした景色である。鉄骨ペンキ塗りの展望塔がすっかり板に付いて見える。黄櫨《はぜ》や山葡萄《やまぶどう》が紅葉しており、池には白い睡蓮《すいれん》が咲いている。駒ヶ岳は先年の噴火の時に浴びた灰と軽石で新しく化粧されて、触《さわ》ったらまだ熱そうに見える。首のない大きなライオンが北向きに坐っているような姿をしている。肌の色もそんな色である。しかし北側へ廻って見ると立派に対称的な火山の形を見せている。これも世界に誇るべき名山だと思う。
 長万部《おしゃまんべ》から噴火湾の海岸を離れて内地へ這入る。人間の少ないのに驚く。ちゃんとした道路があるが通っている人影が見えない。畑に働いている人もめったには見付からない。勿論、熊にも逢わなかった。
 後方羊蹄山《しりべしさん》は綺麗な雲帽を冠っていた。十分後には帽が三重のスカーフ雲の笠になっていた。
 倶知安《くっちゃん》の辺まで来るとまた稲田がある。どこまで行っても稲田は追っかけて来るのである。それでいて楽には米が食えないのが今の日本の国である。
 札幌で五晩泊った。植物園や円山《まるやま》公園や大学構内は美しい。楡《エルム》やいろいろの槲《かしわ》やいたや[#「いたや」に傍点]などの大木は内地で見たことのないものである。芝生の緑が柔らかで鮮やかで摘《つ》めば汁の実になりそうである。鮭が林間の小河に上って来たり、そこへ熊が水を飲みに来ていた頃を想像するのは愉快である。北海道では、今でもまだ人間と動植物が生存競争をやっていて、勝負がまだ付いていないという事は札幌市内の外郭を廻っても分る。天孫民族が渡って来た頃の本土のさま、また朝鮮の一民族が移って来た頃の武蔵野のさまを想像する参考になりそうである。
 札幌の普通の住家は室内は綺麗でも外観が身萎《みすぼ》らしい。土ほこりを浴びた板壁の板がひどく狂って反りかえっているのが多い。
 有名な狸小路では到る処投売りの立札が立っていた。三越支店の食堂は満員であった。
 月寒《つきさっぷ》の牧場へ行ったら、羊がみんな此方《こっち》を向いて珍しそうにまじまじと人の顔を見た。羊は朝から晩まで草を食うことより外に用がないように見える。草はいくら食ってもとても食い切れそうもないほど青々と繁茂しているのである。食うことだけの世界では羊は幸福な存在である。
 六日の朝札幌を立った。倶知安で買った弁当の副食物が、物理的には色々ちがった物質を使ってあるがどれにも味というものが欠けていた。この線路は一体に弁当がよくないので有名だという話である。この辺から汽車の音がサッポロクッチャンというように聞え出して、いつまでもそう聞えるのであった。
 帰路の駒ヶ岳には虹が山腹にかかって焼土を五彩にいろどっていた。函館の連絡船待合所に憐れな妙齢の狂女が居て、はじめはボーイに白葡萄酒を命じたりしていたが、だんだんに暴れ出して窓枠の盆栽の蘭の葉を引っぱったりして附添いの親爺《おやじ》を困らせた。それからしゃがれた声で早口に罵《ののし》りはじめ、同室の婦人を指《ゆびさ》しては激烈に挑戦した。何を云っているかは聞取れない。巡査と駅員に守られて一旦乗船したが出船間際に連れ下ろされて行った。ついさっき暴れていたとは別人のようにすごすごと下りて行った後姿が淋しかった。
 札幌から大勢の警官に見送られて二十人余り背広服の壮漢が同乗したのが、船でもやはり一緒になった。途中の駅でもまた函館の波止場でも到る処で見送りが盛んであった。「頑張れよ」「御大事に」「しっかり頼むよ」口々にこうした激励の言葉を投げた。船と埠頭《ふとう》の間に渡した色テープの橋の両側で勇ましい軍歌が起った、人々の顔がみんな酔ったように赤く見えた。誰も彼も意志の強そうな顔ばかりである。世の中にこわいものもなければ心配なことも何もないような人ばかりである。これらの勇士達はこれからどこの国のどこの道の果てまで行くのであろうか。おそらくどこへ行っても、行く先々に勇敢な彼等のための天地が開けて行きそうな気がする。しかし自分はと云うとこの広い世界の片隅に住み古した小さな雀の巣のような我家へ帰って行くより外はないのである。小雨の降る薄暮の街に灯がともり始め、白い水面を一群のかもめが巴《ともえ》を描いて飛び交わしている。船は大きなカーヴを描いて出て行くので色さまざまの灯をちりば
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