める事は或る人々に極めて重大な問題であると思はれる。吾々の見た蟻や蜜蜂のやうに個體の甲と乙との見分けが付かなくならなければ其の「集團」はまだ本物になつて居ないと思ふ。
十一月十日、水曜。池袋から乘換へて東上線の成増驛迄行つた。途中の景色が私には非常に氣に入つた。見渡す限り平坦なやうであるが、全體が海拔幾メートルかの高臺になつて居る事は、處々に凹んだ谷があるので始めて分る。さういふ谷の處にはきまつて松や雜木の林がある。此の谷の遠く開けて行くさきには大河のある事を思はせる。畑の中に點々と碁布した民家は、きまつたやうに森を背負つて西北の風を防いで居る。なる程吹き曝しでは冬が凌がれまい。
私の郷里のやうに、又日本の大部分のやうに、どちらを見てもすぐ鼻の先に山が聳えて居て、僅の低地には鬱陶しい水田ばかりしかない土地に育つたものには、此のやうな景色は珍しくて、そして如何にも明るく平和にのび/\した感じがする。此れと云つて特に指すもののない爲に一見單調なやうに見えるが、其の中に可也複雜な、しかし柔かな變化は含まれて居る。餘りに強い日常の刺戟に疲れたものゝ眼には此のやうな眺めが又なく有難い。
米を食つて育つて居ながらかういふ事をいふのはすまないが、水田といふものゝ景色は何故か私には陰氣な不健康な感じを與へる。又いくら廣くても其の面積は吾々の下駄ばきの足を容れる事を許さない爲に、なんとなく行き詰まつた窮屈な感じを與へるが、畑地ならば實際何處でも歩いて行けば行かれると思ふだけでも自由な舒《の》びやかな氣がする。
葱や大根が到處に青々として、麥はまだ僅に芽を出した處がある位であつた。此間迄青かつた筈の芋の葉は數日來の霜に凍てゝすつかりうだつたやうになつたのが一つ/\丁寧に結び束ねてあつた。
成増で下りて停車場の近くをあてもなく歩いた。とある谷を下つた處で、曲りくねつた道路と、其の道傍に榛の木が三四本眞黄に染まつたのを主題にして、稍複雜な地形に起伏する色々の畑地を畫布の中へ取り入れた。
歸りに汽車の窓から見た景色は往きとは見違へる程に一層美しかつた。凡てのものが夕日を浴びて輝いて居る中にも、分けて谷の西向の斜面の土の色が名状の出來ない美しいものに見えた。線路に沿うたとある森影から青い洋服を着て、ミレーの種蒔く男の着て居るやうな帽子をかぶつた若者が、一疋の飴色の小牛を迫うて出て來[#「來」は底本では「出」]た。牛の毛色が燃えるやうに光つて見えた。それはどうしても此世のものではなくて誰かの名畫の中の世界が眼前に活きて動いて居るとしか思はれなかつた。
殆んど感傷的になつて見惚れて居る景色の中には、こんなに日が暮れかゝつてもまだ休まず働いて居る農夫の家族が幾組となく居た。赤兒をおぶつて、それをゆさぶるやうな足取をして、麥の芽をふんで居る母親達の姿が哀れに見えた。かうして日の暮れる迄働いておいて朝はもう二時頃から起きて大根の車の後押をして市場へ出るのであらう。
市に近づくに從つて空氣の濁つて來るのが眼にも鼻にも感じられた。風のない市の上空には鉛色の煙が物凄く棚引いて居た。
若しも事情が許すなら、私は此の廣い平坦な高臺の森影の一つに小さな小家を建てゝ、一週の中の或一日を其處に過したいと思つたりした。此れ迄色々の所謂勝地に建つて居る別莊などを見ても、自分の氣持にしつくりはまるやうなものはこれと云つて頭に止まつて居ない。海岸は心騷がしく、山の中は物恐ろしい。立派な大廈高樓はどうも氣樂さうに思はれない。頼まれてもさういふ處に住む氣にはなれさうもない。しかし此の平板な野の森陰の小屋に日當りのいゝ縁側なりヴェランダがあつて其處に一年の中の選ばれた數日を過すのはそんなに惡くはなささうに思はれた。
ついそんな田園詩の幻影に襲はれた程に今日の夕陽は美しいものであつた。
永い間宅にばかりくすぶつて居て、適※[#二の字点、1−2−22]《たま/\》此の好い時節に外の風に吹かれると氣持はいゝやうなものゝ、餘りに美しい自然と其處にも附き纏ふ世の中の刺戟が病餘の神經には少し利き過ぎるやうでもある。もうそろ/\寒くなるし、寫生行もしばらく中止していよ/\靜物でもやり始めなければなるまいと思つて居る。
底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日発行
初出:「中央公論」
1923(大正11)年1月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:多羅尾伴内
2003年11月11日作成
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