る。舳《へさき》に立っている五十近い男が今呼びかけたのは私ではなくて、さっきから私の絵を見ていた中学生であった。
 子供に関するすべての事が稲妻のひらめくように私の頭の中に照らし出された。きょうは土曜である。市の中学からおそらく一週間ぶりに帰った子供はこの一夜を父母と同じ苫《とま》の下で明かそうとするのであろう。それを迎えに来た親と、待ちくたびれた子供とが、船と岸とで黙って向かい合っているさびしい姿を見比べた時に、なんだか急に胸のへんがくすぐったくなって知らぬまに涙が出ていた。なんのための涙であったか自分でもわからない。
 絵の世界はこの上もなく美しい。しばらくこの美しい世界にのがれて病を養おうと思っても、絵の底に隠れた世の中が少しの心のすきまをうかがってすぐに目の前に迫ってくる。これは私の絵が弱いのか世の中が強いのか、どっちだかこれもよくわからない。
 一つの工場が倒れる一方に他の工場は新たに建てられている。さっきの材木もやはりどこかの工場のである事が人夫の話から判断された。工業が衰えたわけでもないらしい。個体が死んでも種《スペシース》が栄えれば国家は安泰である。個体の死に付随する感
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