ょうどそこから登る坂道があった。登りつめるときれいな芝を植えた斜面から玉川沿いの平野一面を見晴らす事ができた。しかしそれよりも私の目をひいたのは、丘の上の畑の向こう側に柿《かき》の大木が幾本となく並んでその葉が一面に紅葉しているのであった。その向こうは一段低くなっていると見えて柿のこずえの下にある家の藁葺屋根《わらぶきやね》だけが地面にのっかっているように見えていた。ここで画架を立てて二時間余りを無心に過ごした。
 崖《がけ》をおりて停車場のほうへ行く道ばたには清らかな小流れが音を立てて流れていた。小川の岸に茂るいろいろの灌木《かんぼく》はみんなさまざまの秋の色彩に染められていた。小川と丘との間の一帯の地に、別荘らしい家がところどころに建っている。後ろには森を背負い、門前の小川には小橋がかかっている、なんとなしに閑寂な趣のあるいい土地だと思う。しかしこの小川の流れが衛生のほうから少し気になる点もあると思った。
 電車は小学校の遠足のかえりでいっぱいであった。よんどころなく車掌台に立って外を見ていると、ある切り通しの崖《がけ》の上に建てた立派な家のひさしが無残に暴風にこわされてそのままになっているのが目についた。液体力学の教えるところではこういう崖の角《かど》は風力が無限大になって圧力のうんと下がろうとする所である。液体力学を持ち出すまでもなく、こういう所へ家を建てるのは考えものである。しかしあるいは家のほうが先に建っていたので切り通しのほうがあとにできたかもしれない。そうだとすると電車の会社はこの家の持ち主に明白な損害を直接に与えたものだという事が科学的に立証されるわけである。これによく似た場合は物質的のみならず精神的の各方面にも至るところにあるが損害をかけた人も受けた人も全然その場合の因果関係に心づかない事が多いように思われる。そのおかげでわれわれは枕《まくら》を高くして眠っていられる。そして言論や行動の自由が許されている。春秋《しゅんじゅう》の筆法が今は行なわれないのであろう。そうでなければこんな事もうっかりは言われない。
 世田が谷近くで将校が二人乗った。大尉のほうが少佐に対して無雑作な言語使いでしきりに話しかけていた。少佐は多く黙っていた。その少佐の胸のボタンが一つはとれて一つはとれかかっているのが始終私の気にかかった。
 同乗の小学生を注意して見ると、もちろんみんな違った顔であるが、それでいて妙にみんなよく似た共通の表情がある。軍人を見てもやっぱりそうであるらしい。これがどうしてそうなるかを突きとめる事はある人々にきわめて重大な問題であると思われる。われわれの見た蟻《あり》や蜜蜂《みつばち》のように個体の甲と乙との見分けがつかなくならなければその「集団」はまだ本物になっていないと思う。

 十一月十日、木曜。池袋《いけぶくろ》から乗り換えて東上線《とうじょうせん》の成増《なります》駅まで行った。途中の景色が私には非常に気にいった。見渡す限り平坦《へいたん》なようであるが、全体が海抜幾メートルかの高台になっている事は、ところどころにくぼんだ谷があるので始めてわかる。そういう谷の所にはきまって松や雑木の林がある。この谷の遠く開けて行くさきには大河のある事を思わせる。畑の中に点々と碁布した民家は、きまったように森を背負って西北の風を防いでいる。なるほど吹きさらしでは冬がしのがれまい。
 私の郷里のように、また日本の大部分のように、どちらを見てもすぐ鼻の先に山がそびえていて、わずかの低地にはうっとうしい水田ばかりしかない土地に育ったものには、このような景色は珍しくて、そしていかにも明るく平和にのびのびした感じがする。これと言って特にさすもののないために一見単調なように見えるが、その中にかなり複雑な、しかし柔らかな変化は含まれている。あまりに強い日常の刺激に疲れたものの目にはこのようなながめがまたなくありがたい。
 米を食って育っていながらこういう事をいうのはすまないが、水田というものの景色はなぜか私には陰気な不健康な感じを与える。またいくら広くてもその面積はわれわれの下駄《げた》ばきの足を容《い》れる事を許さないために、なんとなく行き詰まった窮屈な感じを与えるが、畑地ならば実際どこでも歩いて行けば行かれると思うだけでも自由なのびやかな気がする。
 ねぎや大根が至るところに青々として、麦はまだわずかに芽を出した所があるくらいであった。このあいだまで青かったはずの芋の葉は数日来の霜に凍《い》ててすっかりうだったようになったのが一つ一つ丁寧に結び束ねてあった。
 成増でおりて停車場の近くをあてもなく歩いた。とある谷を下った所で、曲がりくねった道路と、その道ばたに榛《はん》の木が三四本まっ黄に染まったのを主題にして、やや複雑な地形に
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