傷的な哀詩などは考えないほうが健全でいいかもしれない。
工場のみならず至るところに安普請の家が建ちかかっているのがこのあいだじゅう目についていた。ひところ騒がしかった住宅難の解決がこんなふうにしてなしくずし[#「なしくずし」に傍点]についているかと思われた。まだ荒壁が塗りかけになって建て具も張ってない家に無理無体に家財を持ち込んで、座敷のまん中に築いた夜具や箪笥《たんす》の胸壁の中で飯を食っている若夫婦が目についたりした。
新開地を追うて来て新たに店を構えた仕出し屋の主人が店先に頬杖《ほおづえ》を突いて行儀悪く寝ころんでいる目の前へ、膳椀《ぜんわん》の類を出し並べて売りつけようとしている行商人もあった。そこらの森陰のきたない藁屋《わらや》の障子の奥からは端唄《はうた》の三味線をさらっている音も聞こえた。こうしてわが大東京はだらしなく無設計に横に広がって、美しい武蔵野《むさしの》をどこまでもと蚕食して行くのである。こんなにしなくても市中の地の底へ何層楼のアパートメントでも建てたほうがよさそうに思われる。そうしないと、おしまいには米や大根を地下室の棚《たな》で作らなければならない事になるかもしれない。
ベルリンの郊外でまだ家のちっとも建たない原野に、道路だけが立派にみがいたアスファルト張りにできあがって、美術的なランプ柱が行列しているのを、少しばかばかしいようにも感じたのであったが、やっぱりああしなければこうなるのは当たりまえだと思われた。
思うに「場末の新開町」という言葉は今の東京市のほとんど全部に当てはまる言葉である。
十一月二日、水曜。渋谷《しぶや》から玉川電車《たまがわでんしゃ》に乗った。東京の市街がどこまでもどこまでも続いているのにいつもながら驚かされた。
世田《せた》が谷《や》という所がどこかしら東京付近にあるという事だけ知って、それがどの方面だかはきょうまでつい知らずにいたが、今ここを通って始めて知った。なるほど兵隊のいそうなという事が町に並んでいる店屋の種類からも想像されるのであった。
駒沢村《こまざわむら》というのがやはりこの線路にある事も始めて知った。頭の中で離れ離れになってなんの連絡もなかったいろいろの場所がちょうど数珠《じゅず》の玉を糸に連ねるように、電車線路に貫ぬかれてつながり合って来るのがちょっとおもしろかった。
学校で教わったり書物を読んだりして得た知識もやはり離れ離れになりがちなものである。ただ自分が何かの問題にまともにぶつかって、そのほうの必要からこれらの知識を通り抜ける時に、すべての空虚な知識が体験の糸に貫ぬかれて始めて生きて連結して来る。これと同じようなものだと思う。
農科の実科の学生が二三人乗っていた。みんな大きな包みのようなものを携えている。休日でもないのにどこへ行くのだろうと思って気をつけていた。すると途中からもう一人同じ帽章をつけたのが乗り込んで、いきなり入り口に近く腰掛けていた一人の肩をたたき「オイ、どうした」と声をかけた。その言葉の響きのある機微な特徴で、私はこの学生が固有の日本人でない事を知った。気をつけてみると、つい私の隣にかけていた連れの一人の読んでいる新聞が漢字ばかりのものであった。容貌《ようぼう》から見るとどうもシナではなくて朝鮮から来た人たちらしく思われた。
玉川《たまがわ》の川原では工兵が架橋演習をやっていた。あまりきらきらする河原には私の捜すような画題はなかったので、川とこれに並行した丘との間の畑地を当てもなく東へ歩いて行った。広い広い桃畑があるが、木はもうみんな葉をふるってしまって、果実を包んだ紙の取り残されたのが雨にたたけてくっついている。少しはなれて見ると密生したこずえの色が紫色にぼうとけむったように見える。畑の間を縫う小道のそばのところどころに黄ばんだ榛《はん》の木のこずえも美しい。
丘の上へ登ってみようと思って道を捜していると池のようなもののそばに出た。さざ波一つ立たない池に映った丘の森の色もまたなく美しいものである。みぎわに茂る葭《あし》の断え間に釣《つ》りをしている人があった。私の近づく足音を聞くと振り返ってなんだかひどく落ち付かぬふうを見せた。もしこの池で釣魚《つり》をする事が禁ぜられてでもいるか、そうでないとすれば、この人はやはり自分のようなたち[#「たち」に傍点]の、言わばすわりの悪い[#「すわりの悪い」に傍点]良心をもった人間だろうと思われた。そして悪い事をしていなくても、人から悪い事をしていると思われはしないかと思うと同時に、実際悪い事をしていると同じ心持ちになるというたち[#「たち」に傍点]の男かもしれないと思った。そして同病相哀れむ心から私は急いでそこを通り過ぎねばならなかった。
ようやく丘の下の往還に出ると、ち
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