術にかかって名状のできない美しい色の配合を見せていた。それに比べて見ると、そこらに立っている婦人の衣服の人工的色彩は、なんとなくこせこせした不調和な継ぎ合わせもののように見えた。こんなものでも半年も戸外につるして雨ざらしにして自然の手にかけたら、少しは落ちついたいい色調になるかもしれないと思ったりした。実際洗いざらしの鉄道工夫の青服などは、適当な背景の前には絵になるものの一つである。ヴェニスの美しさも半分は自然のためによごれさらされているおかげである。
 乗り込んだ汽車はどこかの女学校の遠足で満員であった。汽車が動きだすと一団の生徒らは唱歌を歌いだした。それはなんの歌だかわからないが、二部の合唱で、静かな穏やかな清らかな感じのするものであった。汽車のゴーゴーという単調な重々しい基音の上に、清らかに澄みきった二つの音の流れがゆるやかな拍子で合ったり離れたり入り乱れて流れて行く。窓の外にはさらに清く澄みきった空の光の下に、武蔵野《むさしの》の秋の色の複雑な旋律とハーモニーが流れて行った。
 大宮駅でおりて公園までぶらぶら歩いた。駅前の町には「螢五家宝《ほたるごかぼう》」というお菓子を売る店が並んでいる。この「五家宝」という名前を見ると私の頭の中へは、いつでも埼玉県《さいたまけん》の地図が広げられる。そうしてあのねちねちした豆の香をかぐような思いがする。
 ある町の角《かど》をまがって左側に蝋細工《ろうざいく》の皮膚病の模型を並べた店が目についた。人間の作ったあらゆる美しくないものの中でもこれくらい美しくないものもまれである。きょうのような日に見るとその醜さがさらに強められる、こんなものや菊人形などというものに比べるとたとえば屠牛場《とぎゅうじょう》の内部の光景のほうがまだいくらか美しいくらいだと思う。牛や豚の残骸《ざんがい》はあれでも自然の断片である。
 悪い醜い病をなおす薬を売るために、病の醜さを世に宣伝する、このやり方が今の新聞や婦人雑誌のやり方によく似ている。その主旨ははなはだめでたい。しかしそういう方法ではたして世の中の醜い病が絶やされるものであろうか。薬はよく売れても、おそらく病のほうはかえってますます広がりはしないだろうか。もう少し積極的なあるものの力でそういう病にかからない根本的素質を養う事はできないものだろうか。
 公園の入り口まで行ってちょっと迷った。
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