われている。今の自分から見るとこれらの画家は実にうらやましい有福な身分だと思う。世の中に何がぜいたくだと言って、このような美しく貴重な自然を勝手自在にわが物同様に使用し時には濫費してもいいという、これほどのぜいたくは少ないと思う。これに匹敵するぜいたくはおそらくただ読書ぐらいのものかもしれない。
 そんな絵を見るたびに、きっと自分も門から外へ出てかいてみたくなるのである。一歩門を出さえすれば、ついそこの路地にでも川岸にでも電車停留場にでも、とにかくうちの庭とは比較にならないほどいい題材が、もったいないように無雑作に、顧みられずにころがっている。わざわざ旅費を出して幾日も汽車を乗り回す必要などはないように思われる。しかしどうもこの東京の街頭に画架をすえて、往来の人を無視してゆっくり落ち着いて、目を細くしたり首をひねったりする勇気は――やってみたら存外あるかもしれないが、考えてみただけではどうもなさそうに思われる。せめて郊外へでも行けばそういう点でいくらかぐあいのいい場所があるだろうと思ったが、しかし一方でまたあまり長く電車や汽車に乗り、また重いものをさげて長途を歩くのは今の病気にさわるという懸念があった。
 ことしの秋になって病気のぐあいがだいぶよくなったし、医者も許しまたすすめてくれたので、どこかへためしに行ってみようと思うと、あいにくなもので時候はずれの霖雨《りんう》がしばらくつづいて、なかなか適当な日は来なかった。やっと天気がよくなって小春の日光の誘惑を感ずるころには、子供が病気になっていてどうもそういう心持ちになれなかった。

 十月十五日。朝あまり天気が朗らかであったので急に思い立って出かける事にした。このあいだM君と会った時、いつかいっしょに大宮《おおみや》へでも行ってみようかという話をした事を思い出して、とにかく大宮まで行ってみる事にした。絵の具箱へスケッチ板を一枚入れて、それと座ぶとん代わりの古い布切れとを風呂敷《ふろしき》で包み隠したのをかかえて市内電車で巣鴨《すがも》まで行った。省線で田端《たばた》まで行く間にも、田端で大宮行きの汽車を待っている間にも、目に触れるすべてのものがきょうに限って異常な美しい色彩で輝いているのに驚かされた。停車場のくすぶった車庫や、ペンキのはげかかったタンクや転轍台《てんてつだい》のようなものまでも、小春の日光と空気の魔
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