のではないかと思う。何しろ、もう三十余年前にただ一度実見したきりなので記憶がはなはだたしかでないが、網を張った叉手の二等辺三角形の両辺の長さが少なくも九尺くらいあり、柄竿の長さもほぼそのくらいあるかと思われ、とにかくずいぶん大きなものであるので、それを自由に操作するには相当の腕力を要するものであったように思う。網目はどのくらいの大きさであったか覚えないが、霞網《かすみあみ》などよりはよほどがっしりしたものであったらしい。
 明治三十四年の暮であったと思う。病気で休学して郷里で遊んでいたときのことであるが、病気も大体快くなってそろそろ退屈しはじめ、医者も適度の運動を許してくれるようになった頃のことであった。時々|宅《うち》の庭の手入れなどに雇っていた要太という若者があって、それが「鴫突き」の名人だというので、ある日それを頼んで連れて行ってもらった。
 それは薄曇りの風の弱い冬日であったが、高知市の北から東へかけての一面の稲田は短い刈株を残したままに干上がって、しかもまだ御形《ごぎょう》も芽を出さず、落寞として霜枯れた冬田の上にはうすら寒い微風が少しの弛張《しちょう》もなく流れていた。そう
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