パーセントだけが爪立《つまだ》ってみても少し届かないといったようなものが多いような気がする。
エヴェレスト登攀《とうはん》でもそうであるが、最後の一歩というのが実はそれまでの千万歩よりも幾層倍むつかしいという場合が何事によらずしばしばある。そう考えて来るといささか心細い日本の現代である。あきらめのよすぎる国民性によるのであろうか。そう思うとウンラート教授のような物事を突き詰めて行くところまで行ってしまう人間も頼もしいような気がする。少なくもそういう人間を産み出しうる国民性はうらやむべきであるかもしれない。
歌舞伎座の一夕の観覧記がつい不平のノートのようになってしまったようであるが、それならちっともおもしろくなかったのかと聞かれればやはりおもしろかったと答えるのである。実をいうと午後四時から十時までぶっ通しに一粒えりの立派な芸術ばかりを見せられるのであったら、自分など到底見に行くだけの気力が足りそうもないような気がする。毎日の仕事に疲れた頭をどうにかもみほごして気持ちの転換を促し快いあくびの一つも誘い出すための一夕の保養としてはこの上もないプログラムの構成であると思われる。むしろ無意
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