た涅歯術《でっしじゅつ》を行なっている女の姿は決して美しいものではなかったが、それにもかかわらず、そういう、今日ではもう見られない昔の家庭の習俗の思い出には言い知れぬなつかしさが付随している。この「おはぐろの追憶」には行燈《あんどん》や糸車の幻影がいつでも伴なっており、また必ず夜寒のえんまこおろぎの声が伴奏になっているから妙である。
おはぐろ筆というものも近ごろはめったに見られなくなった過去の夢の国の一景物である。白い柔らかい鶏の羽毛を拇指《おやゆび》の頭ぐらいの大きさに束ねてそれに細い篠竹《しのだけ》の軸をつけたもので、軸の両端にちょっとした漆の輪がかいてあったような気がする。七夕祭《たなばたまつ》りの祭壇に麻や口紅の小皿《こざら》といっしょにこのおはぐろ筆を添えて織女にささげたという記憶もある。こういうものを供えて星を祭った昔の女の心根には今の若い婦人たちの胸の中のどこを捜してもないような情緒の動きがあったのではないかという気もするのである。
今の娘たちから見ると、眉《まゆ》を落とし歯を涅《そ》めた昔の女の顔は化け物のように見えるかもしれない。しかし、逆にまた、今の近代嬢の髪を
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