じがその全力を尽くすのである。尊重はしても軽侮すべきなんらの理由もない道理である。
 うじが成虫になってはえと改名すると急に性《たち》が悪くなるように見える。昔は五月蠅《ごがつばえ》と書いてうるさいと読み昼寝の顔をせせるいたずらものないしは臭いものへの道しるべと考えられていた。張ったばかりの天井に糞《ふん》の砂子を散らしたり、馬の眼瞼《まぶた》を舐《な》めただらして盲目にするやっかいものとも見られていた。近代になってこれが各種の伝染病菌の運搬者|播布者《はんぷしゃ》としてその悪名を宣伝されるようになり、その結果がいわゆる「はえ取りデー」の出現を見るに至ったわけである。著名の学者の筆になる「はえを憎むの辞」が現代的科学的修辞に飾られてしばしばジャーナリズムをにぎわした。
 しかしはえを取り尽くすことはほとんど不可能に近いばかりでなく、これを絶滅すると同時にうじもこの世界から姿を消す、するとそこらの物陰にいろいろの蛋白質《たんぱくしつ》が腐敗していろいろの黴菌《ばいきん》を繁殖させその黴菌は回り回ってやはりどこかで人間に仇《あだ》をするかもしれない。
 自然界の平衡状態《イクイリブリアム》
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