が、そのころ先生のお宅の菓子鉢《かしばち》の中にしばしばこの餅が収まっていたものらしい。とにかく、この記事のおかげで自分の前歯の折れたのが二十八歳ごろであったことが立派に考証されるのである。立派なものがつまらぬ事の役に立つ一例である。
それほどになる以前にも、またその後にも、ほとんど不断に歯痛に悩まされていたことはもちろんである。早く歯医者にかかって根本的治療をすればよかったわけであるが、子供の時に味わった歯医者への恐怖がいつまでも頭に巣食っていたのと、もう一つには自分がその後に東京で出会った歯医者があまりぐあいのよくなかったのと両方のせいであったか、歯医者の手術台に乗っかっていじめられるよりはひとりで痛みを我慢しているほうがまだましだという気がしていたものらしい。上京後にかかったY町のXという歯医者は朝九時に来いというので正直に九時に行って待っていてもなかなか二階の手術室へ姿を見せないで一時間は大丈夫待たせる。しかし階下ではちゃんと先生の声がしていて、それがたいていいつも細君だか女中だかにはげしい小言を浴びせかける声であった。やっとの思いで待ちおおせて手術を受ける時間は五分か十分で
前へ
次へ
全99ページ中40ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング