残っている。同時にまた灸の刺激が一種の涼風のごときかすかな快感を伴なっていたかのごとき漠然《ばくぜん》たる印象が残っているのである。
 背中の灸《きゅう》の跡を夜寝床ですりむいたりする。そのあとが少し化膿《かのう》して痛がゆかったり、それが帷子《かたびら》でこすれでもすると背中一面が強い意識の対象になったり、そうした記憶がかなり鮮明に長い年月を生き残っている。そういうできそこねた灸穴《きゅうけつ》へ火を点ずる時の感覚もちょっと別種のものであった。
 一日分の灸治を終わって、さて平手でぱたぱたと背中をたたいたあとで、灸穴へ一つ一つ墨を塗る。ほてった皮膚に冷たい筆の先が点々と一抹《いちまつ》の涼味を落として行くような気がする。これは化膿しないためだと言うが、墨汁の膠質粒子《こうしつりゅうし》は外からはいる黴菌《ばいきん》を食い止め、またすでに付着したのを吸い取る効能があるかもしれない。
 寒中には着物を後ろ前に着て背筋に狭い窓をあけ、そうして火燵《こたつ》にかじりついてすえてもらった。神経衰弱か何かの療法に脊柱《せきちゅう》に沿うて冷水を注ぐのがあったようであるが、自分の場合は背筋のまん中
前へ 次へ
全99ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング