こうした場所で隣席の人たちの話している声はよく聞こえても、話している事がらの内容はちっともわからないのであるが、その日隣席で話している中老人二人の話し声の中でただ一語「イゴッソー」という言葉が実にはっきり聞きとれたのでびっくりした。もやもやした霧の中から突然日輪でも出現したようにあまりにくっきりとそれだけが聞こえて、あとはまた元どおりぼやけてしまった。
「イゴッソー」というのは郷里の方言で「狷介《けんかい》」とか「強情」とかを意味し、またそういう性情をもつ人をさしていう言葉である。この二老人はたぶん自分の郷里の人でだれか同郷の第三者のうわさ話をしながら、そういう適切な方言を使ったことと想像される。
 それはなんでもないことであるが、私がこの方言を聞いてびっくりして二人の顔を見たときに二人の顔が急に自分に親しいもののように思われて来て、なんだかずっと昔郷里のどこかで見たことがあるか、あるいは自分のよく知っているだれかによく似ているかどちらかであるような気がして来たのであった。
 これは単に久しぶりに耳にした方言のよび起こした錯覚であったかもしれない。しかしまた郷里のような地理的に歴史的に
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