自由画稿
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)下手《へた》な

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)身辺|瑣事《さじ》の記

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)尾※[#「骨+低のつくり」、第3水準1−94−21]骨

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ポペン/\/\
−−

     はしがき

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 これからしばらく続けて筆を執ろうとする随筆断片の一集団に前もって総括的な題をつけようとすると存外むつかしい。書いてゆくうちに何を書くことになるかもわからないのに、もし初めに下手《へた》な題をつけておくとあとになってその題に気兼ねして書きたいことが自在に書けなくなるという恐れがある。それだから、いつもは、題などはつけないで書きたいことをおしまいまで書いてしまって、なんべんも読み返して手を入れた上で、いよいよ最後に題をきめて冒頭に書き入れることにしているのである。しかし今度は同じ題で数か月続けようとするのだから事情が少しちがって来る。もっとも、有りふれた「無題」とか「断片」とかいう種類のものにすればいちばん無難ではあるが、それもなんだかあまり卑怯《ひきょう》なような気がする。いろいろ考えているとき座右の楽譜の巻頭にあるサン・サーンの Rondo Capriccioso という文字が目についた。こういう題もいいかと思う。しかし、ずっと前に同じような断片群にターナーの画帖《がじょう》から借用した Liber Studiorum という名前をつけたことがあったが、それを文壇の某大家が日刊新聞の文芸時評で紹介してくれたついでに「こんなラテン語の名前などつけるものの気が知れない」と言って非難されたことがあるので、今度もこうした名前は慎むほうがよいであろうと思う。いろいろ考えた末に結局平凡な、表題のとおりの名前を選むことになってしまったわけである。全くむつかしいものである。
 この集の内容は例によって主として身辺|瑣事《さじ》の記録や追憶やそれに関する瑣末《さまつ》の感想である。こういうものを書く場合に何かひと言ぐらい言い訳のようなことをかく人も多いようである。考え方によればそれも必要かもしれない。しかし、いかなる個人でもその身辺にはいやでも時代の背景が控えている。それで一個人の身辺瑣事の記録には筆者の意識いかんにかかわらず必ず時代世相の反映がなければならない。また筆者の愚痴な感想の中にも不可避的にその時代の流行思想のにおいがただよっていなければならない。そういうわけであるから現代の読者にはあまりに平凡な尋常茶飯事《じんじょうさはんじ》でも、半世紀後の好事家《こうずか》には意外な掘り出し物の種を蔵しているかもしれない。明治時代の「風俗画報」がわれわれに無限の資料を与え感興をそそるのもそのためであろう。ただし、そういう役に立つためには記録の忠実さと感想の誠実さがなければならないであろう。
 これが私の平生こうした断片的随筆を書く場合のおもなる動機であり申し訳である。人にものを教えたり強《し》いたりする気ははじめからないつもりである。
 集中には科学知識を取り扱ったものも自然にしばしば出て来るかもしれない。しかしそれも決して科学知識の普及などということを目的として書くのではない。ただ自分でほんとうにおもしろいと感じたことの覚え書きか、さもなければ譬喩《ひゆ》か説明のために便利な道具として使うための借りものに過ぎない。しかし、そうかと言ってその結果がいくぶんか科学知識普及に役立つことになってもそれはさしつかえはないであろうと思っている。
 ついでながら、断片的な通俗科学的読み物は排斥すべきものだというような事を新聞紙上で論じた人が近ごろあったようであるが、あれは少し偏頗《へんぱ》な僻論《へきろん》であると私には思われた。どんな瑣末《さまつ》な科学的知識でも、その背後には必ずいろいろな既知の方則が普遍的な背景として控えており、またその上に数限りもない未知の問題の胚芽《はいが》が必ず含まれているのである。それで一見いわゆるはなはだしく末梢的《まっしょうてき》な知識の煩瑣《はんさ》な解説でも、その書き方とまたそれを読む人の読み方によっては、その末梢的問題を包含する科学の大部門の概観が読者の眼界の地平線上におぼろげにでもわき上がることは可能でありまたしばしば実現する事実である。読者の頭脳次第では、かなりつまらぬ科学記事からでもいろいろな重大問題の暗示を感知し発見し摂取し発展させることもしばしばあるのである。一方ではまた浅薄な概括的論述を羅列《られつ
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