》した通俗科学的読み物がはなはだしく読者をあやまるという場合もしばしばあるであろう。それで、ただ一概に断片的な通俗科学はいかなる場合でも排斥すべきものであるかのような感を読者にいだかせるような所説に対しては、少なくも若干の付加修正を必要とするであろうと思われた。この機会についでながら付記しておく次第である。
[#ここで字下げ終わり]

     一 腹の立つ元旦

 正月|元旦《がんたん》というときっときげんが悪くなって苦《にが》い顔をして家族一同にも暗い思いをさせる老人があった。それは温厚篤実をもって聞こえた人で世間ではだれ一人非難するもののないほどまじめな親切な老人であって、そうして朝晩に一度ずつ神棚《かみだな》の前に礼拝し、はるかに皇城の空を伏しおがまないと気の済まない人であった。それが年の始めのいちばんだいじな元旦の朝となると、きまってきげんが悪くなって、どうかすると煙草盆《たばこぼん》の灰吹きを煙管《きせる》の雁首《がんくび》で、いつもよりは耳だって強くたたくこともしばしばあった。
 その老人のむすこにはその理由がどうしてもわからなかったのであったが、それから二三十年たってその老人もなくなって後に、そのむすこが自分の家庭をもつようになって、そうして生活もやや安定して来たころのある年の正月|元旦《がんたん》の朝清らかな心持ちで起床した瞬間からなんとなく腹の立つような事がいろいろ目についた。きれいに片付いているべき床の間が取り散らされていたり、玄関の障子が破けていたり、女中が台所で何か陶器を取り落としたような音を立てたり、平生なら別になんでもないことが、その元旦に限ってひどく気になり、不愉快になり、やがて腹立たしく思われて来るのであった。その一方ではまた、きょうは元旦だから腹を立てたりしてはいけないという抑制的心理が働いて来る、そうするとかえってそれを押し倒すような勢いで腹立たしさが腹の底から持ち上がって来るのであった。その瞬間にこの男は突然に、実に突然になくなった父のことを思い出してびっくりした。そうして、その瞬間にはじめて今までどうしてもわからなかった、昔の父の元旦の心持ちを理解することができたのである。
 それからまた数年たって後のことである。このむすこのむすこがある年の正月に何かちょっとしたことがなるべきようになっていなかったと言ってひどくその母や女中に対しておこっているのをその父親が発見してひどくびっくりし、そうしてまた非常に恐ろしくなったのだそうである。
 こういう話を聞いてひどく感心したことがある。つまらない笑い話のようで実はかなり深刻な人間心理の一面を暴露していると思う。こんなのも何かの小説の種にはならないものかと思う。
 それはとにかく、正月をめでたいという意味が子供の時分から私にはよくわからなかったが、年を取ってもやはりまだ充分にはわからない。少なくも自分の場合では正月というととかくめでたからぬことが重畳して発生するように思われるのである。のみならず平日ならそれほどにも感じないような些細《ささい》なめでたからぬことが、正月であるがために特にふめでたに感ぜられる。これはおそらくだれでも同様に感じることであろう。たとえば小さい子供がおおぜいあるような家ではちょうど大晦日《おおみそか》や元日などによくだれかが風邪《かぜ》をひいて熱を出したりする。元旦《がんたん》だからというのでつい医者を呼ばなかったばかりに病気が悪化するといったような場合もありうるであろう。
 高等学校時代のある年の元旦に二三の同窓といっしょに諸先生の家へ年始回りをしていたとき、ある先生の門前まで来ると連れの一人が立ち止まって妙な顔をすると思ったら突然仰向けにそりかえって門松に倒れかかった。そうしてそれなりに地面に寝てしまって口から泡《あわ》を吹き出した。驚いて先生を呼び出して病人をかつぎ込んでから顔へ水をぶっかけたり大騒ぎをした。幸いにまもなく正気づきはしたが、とにかくこれがちょうど元旦であったために特に大きな不祥事になってしまったのである。
 正月元旦は年に一度だから幸いである。もしこれが一年に三度も四度もあったらたいへんであろうと思われるが、しかしいっそのことこれが一年に十二回とか五十回とかあるようになればまたかえって楽になるかもしれない。そう思ってみると、一年に一回ずつ特別な日を設けて、それを理由などかまわずとにもかくにもめでたい日ときめてしまって強《し》いてめでたがり、そうしてそのたびに発生するいろいろな迷惑をいっそう痛切に受難することにもなかなか深い意義があるような気がしてくる。
 正月をめでたいとして祝うことを始めて発明した人があったとしたら、その人はやはりなかなかえらい人であったろうと思われるのである。

     二 こじ
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