きの体験

 子供の時分、たぶん七八歳ぐらいのころかと思うがとにかくあまり自慢にならぬこじきの体験をしたことがある。
 そのころ郷里|高知《こうち》では正月の十四日の晩に子供らが「粥釣《かゆつ》り」と称して近所の家を回って米やあずきや切り餅《もち》をもらって歩いて、それで翌朝十五日の福の粥を作るという古い習慣が行なわれていた。素面ではさすがにぐあいが悪いと見えてみんな道化た仮面をかぶって行くことになっていたので、その時期が来ると市中の荒物屋やおもちゃ屋にはおかめ、ひょっとこ、桃太郎、さる、きつねといったようないろいろの仮面を売っていた。泥色《どろいろ》をした浅草紙を型にたたきつけ布海苔《ふのり》で堅めた表面へ胡粉《ごふん》を塗り絵の具をつけた至って粗末な仮面である。それを買って来て焼け火箸《ひばし》で両方の目玉のまん中に穴を明ける。その時に妙な焦げ臭いにおいがする。それから面の両側の穴に元結いの切れを通して面ひもにするのである。面をかぶるとこの焦げ臭いにおいがいっそうひどい、そうして自分のはき出す呼気で面の内側が湿って来ると魚膠《うおにかわ》のにおいやら浅草紙のにおいやらといっしょになって実に胸の悪い臭気をかもし出すのであった。五十年後の今日でもありありこの臭気を思い出すことができるのである。
 四五人、五六人という群れになって北山おろしの木枯らしに吹かれながら軒並みをたずねて玄関をおとずれ、口々にわざと妙な作り声をして「カイツットーセ」という言葉を繰り返す。「粥釣りをさせてください」という意味の方言なのである。すると家々ではかねて玄関かその次の間に用意してある糯米《もちごめ》やうるちやあずきや切り餅を少量ずつめいめいの持っている袋に入れてやる。みんなありがとうともなんとも言わずにそれをもらって次の家へと回って行くのである。
 平生は行ったこともない敷居の高い家の玄関をでもかまわず正面からおとずれて、それとなく家居のさまを見るという一種の好奇心のようなものがこれらの小さいこじきたちの興味の中心であったように見える。大概の家では女中らはもちろん奥さんや娘さんまでのぞきに出て来て、道化た面をかぶった異風な小こじきの狂態に笑いこける。そこには一種のなんとなく窈窕《ようちょう》たる雰囲気《ふんいき》があったことを当時は自覚しなかったに相違ないが、かなりに鮮明なその記憶を今日分析してみてはじめて発見するのである。粥釣《かゆつ》りが子供ばかりでなくむしろおとなによって行なわれたかと思わるる昔ではこうした雰囲気があるいはかなりに重要な意義をもっていたのではないかとも想像されるのである。
 自分の宅《うち》へ来る粥釣りを内側から見物した場合のほうが多かったように思う。粥釣りに来るおおぜいの中でも勇敢なのは堂々と先頭に立ってやって来るが、気の弱いのは先頭の背後に隠れるようにして袋をさし出すのもある。しかしなにしろおもに近所の人たちであるから、たとえ女の着物を着たり、羽織をさかさまに着たりしていてもおおよその見当がつく場合が多い。粥釣りを迎える家に勇猛な女中でもいると少し怪しいと思われるようなのをいきなりつかまえて面を引きはごうとして大騒ぎになるようなこともあったような気がする。
 こじきを三日すると忘れられないというが、自分にもこのこじきの体験は忘れられないものである。このこじき根性が抜けないおかげで今日をどうやらこうやら飢えず凍えず暮らして行かれるのかもしれないのである。
 こんな年中行事は郷里でも、もうとうの昔に無くなってしまって、若い人たちにはそんな事があったということさえ知られていないかもしれない。

     三 冬夜の田園詩

 これも子供の時分の話である。冬になるとよく北の山に山火事があって、夜になるとそれが美しくまた物恐ろしい童話詩的な雰囲気《ふんいき》を田園のやみにみなぎらせるのであった。
 友だちと連れ立って夜ふけた田んぼ道でも歩いているときだれの口からともなく「キーターヤーマー、ヤーケール、シシーガデゥヨ」と歌うと他のものがこれに和する。終わりの「出ぅよ」を早口に歌ってしまうと何かに追われでもしたようにみんないっせいに駆け出すのであった。そういうときの不思議な気持ちを今でもありありと思い出すことができる。
 自分が物心づくころからすでにもうかなりのおばあさんであって、そうして自分の青年時代に八十余歳でなくなるまでやはり同じようなおばあさんのままで矍鑠《かくしゃく》としていたB家の伯母《おば》は、冬の夜長に孫たちの集まっている燈下で大きなめがねをかけて夜なべ仕事をしながらいろいろの話をして聞かせた。その中でも実に不思議な詩趣を子供心に印銘させた話は次のようなものであった。
 冬のやみ夜に山中のたぬきどもが集まって舞踊会のよう
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